庭を眺めていたら猫がのぞいてきました。
いつもの野良猫。
のんびりとお散歩でしょうか。
今日、2月15日はお釈迦様が亡くなられた日(涅槃会)です。
普濟寺にも大きな涅槃図があります。
ありとあらゆる生きものが、お釈迦様の死を嘆き悲しんでいる様子が描かれています(そういえば昨日の集まりで、図の中に「猫」が描かれていないのが話題になりました)。
100年以上前のものですが、キレイに色が残っていますね。
今日は、この涅槃図を拝しながら、お釈迦様の御生涯を偲びたいと思います。
(過去記事です)
悲しみとは逆になりますが、今回の『高尾山報』「法の水茎」は「笑顔」がテーマです。「無財の七施」の二つ目は「和顔施」。辛い世の中にあっても、穏やかな微笑みを絶やさないことについて書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。
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「法の水茎」116(2022年2月号)
春さればまづ咲く宿の梅の花
独り見つつや春日暮らさむ
(『万葉集』山上憶良)
(春になると真っ先に咲く庭の梅。その花をただ一人眺めて春の日を過ごそうか。いや、それはできないよ)
立春を迎えて、吹き渡る風にも、どことなく暖かさが感じられるようになってきました。庭先の草花も日に日に芽吹いて、春の訪れを喜んでいるかのようです。まさに華やぐ季節の到来です。
この「春されば」の歌では、春に先駆けて咲き出した梅の花が詠われています。それは、独り占めするには勿体ないほどの愛らしい姿だったのでしょう。
「春日遅遅(はるひちち)」と言われるように、うららかな春の日長は長閑に時を刻みます。ゆっくりと日が暮れてゆけば、今度は宵闇からの芳しい梅の香りに気づかされるかもしれません。長いようで短い春の息吹を、全身で感じ取りたいものです。
さて、先月号から「無財の七施」という七つの布施行について書いています。今回は、その二つ目の「和顏悦色施(わげんえつじきせ)」(「和顏施(わげんせ)」とも)という教えです。「和顔」は「柔和顔(にゅうわがお)」と同様に「優しい穏やかな表情」を表し、「悦色(えつじき)」もまた「嬉しそうな面持ち」を意味します。「和顏悦色」という言葉は、奈良時代の歴史書『日本書紀』に「和顔悦色(うれし)びたまひて」として見え、「うれし」という読み仮名が振られていることからも「明るく晴れやかな顔つき」を表現しているのでしょう。
「無財の七施」を説く『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』というお経には、「和顏悦色施」について「父母・師長・沙門・婆羅門に、顰蹙悪色せず」と見えます。ここに見える「顰蹙(ひんしゅく)」は、「顰(ひん)」も「蹙(しゅく)」も「しかめっ面」を意味します。そのような表情は「悪相」(恐ろしい人相)となるのでしょう。私も相手の気持ちを考えずに行動をして「顰蹙(ひんしゅく)を買った」経験がありますが、眉をひそめるような顔つきもまた、周りの人に伝わってしまうようです。
「一顰一笑(いっぴんいっしょう)」という言い回しがあります。人は日々の生活の中で、楽しく笑ったかと思えば(笑)、急に顔をしかめたり(顰)、ささいな刺激によっても顔色が変わってしまうものです。いつも仏さまのような「和顔」でありたいと願いつつ、怒りや恨み、妬みや憎悪といった「負の感情」は、なかなか抑えきれません。
ちなみに、仏さまの表情は「アルカイック・スマイル」とも呼ばれる温和な微笑みをたたえていますが、その一方で「仏頂面(ぶっちょうづら)」という言い方も耳にします。「仏頂面」は「仏頂尊」という仏さまの恐ろしい形相が「無愛想」に見えたところから名づけられたとか。仏さまの深い思索のお姿が、そのように目に映ったのかもしれません。
「和顔」(微笑み)をめぐっては、奈良時代の僧侶、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)(668~749)と智光法師(ちこうほうし)(709?~780?)との逸話があります。以前の『髙尾山報』「法の水茎」25(髙橋秀城『法の水茎』104頁「笑顔で悲しみを隠して」)でも触れましたが、行基に嫉妬して地獄に堕ちた智光は、閻魔王(地獄の神)に許しを請うて、再びこの世に生き返ってきました。身体が回復すると、智光は行基のもとへ嫉妬心の罪を謝りに行きました。
行基は智光を見ると、神通力で智光の思いを汲み取りました。にっこりと笑みを浮かべると、思いやりの心をもって「どうして、長い間お目にかかれなかったのでしょう」と話しかけました。
智光は自分が犯した罪をすべて打ち明け、懺悔して言いました。「私は妬む心から、あなたの悪口を言って地獄に堕ちました。罪を償って舞い戻ってきましたが、ここに恥をさらして白状します。どうか罪をお許しください」と。行基は、顔を和らげて黙っておられたままでした。
このことがあって以来、智光法師は行基菩薩を信じなさって、行基菩薩が本当の聖人(悟りを得た人)であることを知ったのでした。
(『日本霊異記』など)
行基は、「和顔」で智光に接しました。限りない慈しみの心(慈悲心(じひしん))は、智光に大いなる安心を与えたでしょう。行基の穏やかに微笑みをたたえた表情が、智光の罪の告白への答えだったのです。
春風に笑みを開くる花の色は
昔の人の面影ぞする
(藤原高遠『大弐高遠集』)
(春風によって咲いた花の色香は、昔の人の面影(顔かたち)のようだよ)
「ほほえみ」は「頬咲み」とも書きます。厳しい冬を乗り越えた花々に頬咲まれたら、自然と心も華やいで、頬も緩んでくるでしょう。草木の「和顔(わげん)」に応えるように、私たちも微笑みを絶やさずに、この辛い世の中を明るく生きていきたいものです。
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最後までお読みくださりありがとうございました。