坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

弘法大師空海のお話⑦ ~ 誓いを込めて投げた三鈷杵、答え合わせの旅路 ~ 「法の水茎」128


今日は涅槃会。
普濟寺にある「涅槃図」を本堂に掲げました。



本日もお参りの方に見ていただけて有り難く思いました。

普濟寺蔵「涅槃図」の過去記事です。

www.mizu-kuki.work

 

さて今月の「法の水茎」も「弘法大師空海のお話」です。唐(中国)から投じた三鈷杵(仏具)を探し求める旅について書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」128(2023年2月号)




 穏やかなお正月も束の間。全国的に一月は、例年にも増して大雪や寒波に見舞われました。加えて、日常生活でも電気・ガス・食料品などの値上げが家計を襲い、何かと苦しい新年の船出となっています。厳しい毎日を送っていらっしゃる方も多いかと思います。一刻も早く世界に平和が訪れ、この大きな荒波が静まることを切に願います。

 季節は寒中を過ぎて、少しずつではありますが春のきざしを感じるようになってきました。

  うぐひすの谷よりいづる声なくは

   春くることを誰か知らまし

    (『古今集』大江千里)

(谷から出て鳴く鶯の声を聞かなかったら、春が来たことを誰が知るだろうか)

 人間と同じように、動植物も春の訪れを待ち望んでいるでしょう。気温の上昇とともに、草木もずいぶんと芽吹いてきました。中国の書物『詩経』に「幽谷(ゆうこく)を出(い)でて喬木(きょうぼく)に遷(うつ)る」(鳥が深い谷から出て高い木に飛び移る)という言葉があるように、春の訪れを告げる鶯も、谷間から里へとやって来て、可愛らしい初音を聞かせてくれるでしょう。

 こうした春の息吹を愛でる気持ちは、昔の人々も同じです。例えば、今から350年ほど遡る江戸時代の寛文十一年(1671)に開催された和漢聯句(わかんれんく)の会を見てみましょう。真言宗智山派総本山智積院の第七世でもある運敞(うんしょう)僧正(1614~1693)という学匠は、時の後西上皇(1638~1685)に招かれて、数名の僧侶とともに次のような句を詠み合いました(国会図書館蔵『連歌合集』より)。

  泄春鴬出谷 智積院権僧正

  雪のうちよりしろき梅が香 後西上皇

  月寒哦重賞 太華

  靄旅況幽望 顕令

  朝なぎに波のうら舟漕はなれ 大覚寺宮

  干潟もみえてはるる塩風   照高院宮

 この会では、まず運敞僧正(智積院権僧正)が「春を泄(もら)して鶯谷を出づ」と発句(最初の第一句)を詠んでいます。これは、先に挙げた「うぐひすの」の和歌のような、鶯が谷から飛び立つ春景色です。この句を受けて、次の後西上皇は「雪のうちよりしろき梅が香」と残雪から漂う梅の香りを和句で連ねました。また、東福寺241世太華(たいか)和尚は「月は寒哦(かんが)の重賞(じゅうしょう)」と寒中の月を誉め称え、建仁寺306世顕令(けんれい)和尚(?~1681)は「靄(もや)は旅況(りょきょう)の幽望(ゆうぼう)」と旅での物静かな春靄(しゅんあい)の景色を、やはり漢句で詠っています。さらに、大覚寺宮(性真入道親王・1639~1696)は「朝なぎに波のうら舟漕はなれ」と風が吹き止んだ一時に春霞を隔てて漕ぎ行く舟を詠じ、照高院宮(道晃入道親王・1612~1679)は「干潟もみえてはるる塩風」と再び吹き始めた海風によって干潟が現れた光景を和句で詠み込みました。

 ここには、春のさまざまな表情が切り取られています。連想によって次々と和句と漢句を織り交ぜていく和漢聯句は、当然ながら先人の和歌や漢詩に精通していなければ成立しません。これら6名による聯句は、深い教養から生み出された春の情景と言えるのでしょう。

 こうしたお姿は、真言宗を開かれた弘法大師空海(774~835)にまで遡ることができます。お大師さまが作られた漢詩や書道の達人としての逸話なども、たゆまぬ日々の研鑽によるものでしょう。お大師さまは、多くのお手本を後世の私たちに示されました。

 先月号では、日本の聖地を求めるために、手に持った三鈷杵(さんこしょ)(仏具)を虚空へと投じたところまでを読みました。果たしてそれは、はるばる海を飛び越えて、日本のどこに辿り着いたのでしょう。『今昔物語集』の空海伝には次のように語られています。

 今は昔。老齢になられた弘法大師は「唐から投げた三鈷を探そう」と思い、弘仁7年(816)6月に大和国宇智の郡(現在の奈良県五條市あたり)に至ると、一人の猟師に会いました。その男は、顔は赤く背丈は8尺ほど(242センチほど)で、青色の小袖を着た、筋骨たくましい姿でした。弓矢を身につけ、大小2匹の黒犬を引き連れていました。

 その男はすれ違い様に「そこを歩かれている聖人はどこに行かれるのですか」と尋ねます。「私は唐から三鈷を投げて『禅定(ぜんじょう)の霊窟(れいくつ)(心安まる霊妙な地)に落ちよ』と祈願しました。今はその土地を探し求めているのです」と答えると、「私は南山(高野山)の犬飼猟師です。そのような場所を知っているので、すぐにお教えしましょう」と語って、犬を放ち走らせたのでした。

        (『今昔物語集』)

 話は、もう少し続きますが次回といたしましょう。唐から帰国したのは大同元年(806)でしたので、それから十年後の出来事となります。真言密教の教えを弘め、既に多くの弟子たちを導いていたお大師さまでしたが、誓いを込めて投げた三鈷杵のことを忘れてはいませんでした。年を重ねてからの遠歩きは、若き日の願いが叶えられたのかを一歩一歩確認するための、答え合わせの旅路だったのかもしれません。

  さりともと思ひ思ひて祈りけむ

   心の根より花ぞ咲きそむ

       (慈円『拾玉集』)

(それでも叶えられるかと、深く思い続けて祈ったのでしょう。心の奥底の清らかな気持ちから、美しい花は咲き始めるのです)

 「初心忘るべからず」。お大師さまは、修行に明け暮れていた頃の決意を忘れずに持ち続けていたからこそ、厳冬を乗り越えた梅のような、かぐわしく高貴な花を咲かせることができたのでしょう。



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最後までお読みくださりありがとうございました。