坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

弘法大師空海のお話㉝ ~ 沖縄は「仏法有縁の勝地」(仏さまの霊地)、日秀が根づかせた真言密教の教え ~ 「法の水茎」155


庭の片隅に撫子(ナデシコ)の花が咲いています。


色とりどりで可愛らしいですね。
長く楽しめるので、少しずつ増やしていければと思っています。

今月の『高尾山報』「法の水茎」は、真言密教と沖縄との結び付きについて、特にお大師さまの教えを弘められた日秀という僧侶に焦点を当てて書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」155(2025月5月号)


 庭を見渡せば藤に芍薬、牡丹にツツジなどの花々が咲き誇り、空を見上げれば心地良い風に吹かれながら鳥たちが元気いっぱいに囀っています。田植えが終わった早苗田にはやわらかな陽光が反射して、喜びに満ちあふれたカエルの大合唱も聞こえてきます。毎年訪れる初夏の瑞々しい風景です。

  勝地はもとより

  定まれる主(ぬし)なし

  おほむね山は

  山を愛する人に属す

   (白居易『白氏文集』)

(景色の良い土地は、もともと持ち主は決まっていません。だいたい山というものは、山を愛する人の持ち物なのです)

 この漢詩に見られるように、命あふれる光景はもとより誰の所有物でもありません。鎌倉時代前期の文人・鴨長明(1155?~1216)は、『方丈記』の中でこの句を引用し、「勝地は主なければ、心をなぐさむるにさはりなし」(景色に持ち主はいないので、心を慰めるに何の妨げもない)と語りました。ただただ大いなる自然の懐に抱かれていると感じたとき、心はやがて穏やかに鎮まってゆくのでしょう。

 長明のように、晴れた日には野山の散策も良いものでしょう。時には向かいの山々に向かって、お腹の底から「ヤッホー」と呼びかければ、もしかすると同じように応えてくれるかもしれません。「山彦」という言葉は、もともと「山の神」を意味します。自らを解き放って風光を愛せば、きっとたくさんの「木霊(こだま)」に出会えることでしょう。

 「山彦」をめぐっては、弘法大師空海(774~835)が詠んだとされる歌が伝わっています。

  手のうちに有りけるものを山びこの

   こたふるかたを尋ねけるかな

   (『弘法大師全集』)

(心の中にあるというのに、山彦の応えるほうを探し求めてしまうよ)

 この和歌には、歌の前に「心外求仏法心」(心の外に仏法を求むる心を)という詞書が付されています。これによればお大師さまは、仏さまの悟りの教えは山彦が返ってくるような遠い場所にあるのではなく、実は身近な「心の中」(手のうち)に存在していることを説かれているようです。似たような言葉に「心外無別法(しんげむべっぽう)」(すべては自分の心から出たもので、別にあるものではない)という仏教語もあります。新緑の山野に分け入りながら、心の奥底に隠れている清らかで美しい仏さまの心も探されてみてはいかがでしょうか。

 さて先月号では、日本列島を北上する桜前線とともに北海道に伝わるお大師さまの信仰について書いてみました。今月は一転して日本最南端の沖縄に目を向けてみたいと思います。

 お大師さまの教えを沖縄に伝えられたお一人に、戦国時代の真言僧侶、日秀(にっしゅう)(1503~1577)という方がいらっしゃいます。伝によれば、加賀国(現在の石川県、一説では上野国〔現在の群馬県〕)に生まれ、高野山で修行の後に、はるか南方にあるという観音様の浄土(補陀落(ふだらく))に往生しようと紀州(現在の和歌山県))より舟を漕ぎ出し、琉球に漂着したそうです。琉球王国の王府が編纂させた最初の地誌『琉球国由来記』によれば、日秀を乗せた舟は、金武の富花(現在の沖縄県国頭郡金武町の福花)の海岸に辿り着き、その地を補陀落山(観音菩薩の浄土)の霊地として金武観音寺(高野山真言宗)を建立したと記されています。

 沖縄の歴史書『球陽』(1743~45)には、次のような話も載せられています。

 首里(現在の那覇市)から浦添(現在の浦添市)までの間には、木々が鬱蒼と茂る高い峰がありました。昔、ここには妖怪が多く棲み着き、時々出没しては人を驚かし誑かすなどの悪さをしていました。夕暮れになると人々は恐れ、その道を通ることはありませんでした。

 その頃、日秀上人という僧侶がいました。その様子を気の毒に思うと、「金剛経」というお経を小石に写してこの地に埋め、礎石を建てて妖怪を鎮圧したのでした。

 礎石には「金剛嶺」の三字が記されていました。それ以来というもの、妖怪が現れることはなくなり、安心して通行できるようになったそうです。

      (『球陽』)

 日秀には、この他にも弥陀・薬師・観音の三尊像を作って護国寺(那覇市・高野山真言宗)に安置したという事跡など、さまざまな伝説が残されています。沖縄の地に真言密教の教えを根づかせた方と言えるでしょう。

 なお、この護国寺は沖縄における真言宗第一の巨刹と称され、鹿児島坊津一乗院から琉球に渡った頼重(?~1384)という僧侶によって開山された寺院と伝わっています。坊津一乗院については昨年の10月号(「法の水茎」148)でも触れましたが、鹿児島大乗院・大興寺、坊津一乗院は鹿児島における真言宗の三本山と言われ、とりわけ鹿児島最大の密教寺院であった大乗院の末寺は琉球国にまで及んでいたことが分かっています。戦国期には、琉球の僧侶が鹿児島に渡って、お経の書写活動を行っていた記録も見えることから、活発な相互交流が行われていたのでしょう。種子島や屋久島といった種子屋久地方も視野に入れた僧侶の往来にも思いを馳せます。

 今回取り上げた日秀については、清の徐葆光(1671~1723)が著した琉球の地誌『中山伝信録』の中に、日秀を謡った「民謡」が書き留められています。

  神人来ル

  富蔵水清シ

  神人遊フ

  白沙米ニ化ス

   (『中山伝信録』)

(神人が来て富蔵(富花)の海岸は水がさらに清らかとなった。神人がそこで遊ぶと白砂は米に変じた)

 日秀はお大師さまのように罷業土木事業にも長けていたのでしょうか。人々から「神人」(神のように気高い人)と慕われた日秀の施行(布施行)によって、沖縄の地は「仏法有縁の勝地」(仏さまが住まう霊地)ともなっていったのです。



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最後までお読みくださりありがとうございました。