坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「無財の七施」のお話③ ~ 言辞施、心からの優しい言葉を ~ 「法の水茎」117

お彼岸初日は冷たい雨の一日となりました。
本来なら今日は満月の日ですが、どうやら厚い雲の彼方に隠れてしまっているようです。

先日の地震で倒れてしまった永代供養塔近くの力石。

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大きな揺れでしたね。

今日は雨の中を、とある方が、さっそく直してくださいました。

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ありがとうございました!
安心してお彼岸を迎えることができました。

(力石の過去記事です)

www.mizu-kuki.work


さて、今回の『高尾山報』「法の水茎」は「言葉づかい」がテーマです。「無財の七施」の三つ目は「言辞施」。「花の言葉」に耳を傾けながら「本物の言の葉」を散らす大切さついて書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」117(2022年3月号)





 桜の開花も間もなくでしょうか。毎日の天気予報を確認しながら、桜前線(桜の開花予想)の進み具合も気になります。

  何となく春になりぬと聞く日より

   心にかかるみ吉野の山

         (西行『山家集』)

(立春と聞き知った日から、何となく吉野山の桜が心から離れないよ)

 この歌を詠んだ西行法師(1118~1190)は、生涯にわたって桜を愛し、とりわけ名所として名高い吉野(奈良県吉野郡吉野町)の山桜に心を寄せました。立春から桜の開花までは時間がありますが、今か今かと花の便りを待ち望んでいるのでしょう。心はすでに身体から離れて、満開の吉野山の奥に分け入っているかのようです。

 西行は、若い頃から桜の木の下で死にたいという願望を持っていました。仏の道を切り開いたお釈迦様を慕いつつ、その願い通りにこの世を去って行きましたが、西行が亡くなった旧暦の2月16日は、今年は3月18日にあたります。ちょうど春彼岸入りの満月の日に、桜の花は咲き初めているでしょうか。

  白川の春の梢の鶯は

   花のことばを聞く心地する

     (西行『山家集』)

(白川の、春の梢に鳴く鶯の声は、まるで桜の言葉を聞くような心地がするよ)

 山から里へと下りてきた桜の花は、春を告げる鶯が運んできたのでしょうか。西行には、鶯の声が「花の言葉」のように聞こえているようです。さぞかし美しい音色だったでしょう。西行も応えるかのように、優しい言葉を投げかけていたことが想像されます。

 さて今回は、こうした「言葉」をめぐる布施行について書いてみたいと思います。「無財の七施」の三つ目は「言辞施(ごんじせ)」という教えです。「言辞」とは「ものの言い方」のことです。

 「言辞施」について『雑宝蔵経』には、「父母・師長・沙門・婆羅門に、柔軟語を出す。麤悪言にあらず」と説かれています。ここに見える「柔軟語(にゅうなんご)」とは、トゲトゲしくない「当たりの柔らかな言葉」を意味します。

 一方、「麤悪言(そあくごん)」の「麤悪(そあく)」はあまり見慣れない漢字ですが、「粗悪」と同じように「質の悪いもの」を表します。先ほどの「柔軟語」とは真逆の「下品な言葉」となるのでしょう。目上の人に丁寧な言葉を用い、品性に欠ける言葉を使ってはいけないという戒めです。

 「売り言葉に買い言葉」という言い回しがあります。相手の暴言に悪口で返すような言い争いは控えるべきですが、時には逆らえずに言い返せない場合があるかもしれません。突き刺さった心の傷は、簡単には治せないものです。言葉の一つ一つに、細心の注意を払う必要があるでしょう。

 ちなみに、平安時代後期の流行歌謡を集めた『梁塵秘抄』には、「麤(あら)き言葉もいかなるも第一義とかにぞ帰るなる」(荒々しい言葉(麤悪言)も柔和な言葉(柔軟語)も仏法の究極の真理とつながっている)という歌が伝わっています。仏さまは、時として衆生(私たち)のために敢えて手荒い言葉で諭すという教えです(『涅槃経』)。仏さまだからこその方便(仮の手段)として、私たちを力強く導いてくださっているのです。

 兼好法師(1283頃~1352以後)の『徒然草』には、言葉づかいをめぐる次のような章段があります。

 全てにおいて短所がないようにしようと思うならば、何事にも誠実さがあって、他人を区分けせず、礼儀正しく丁重に振る舞い、言い過ぎず、口数が少ないのに越したことはないだろう。性別や年齢に関係なく、皆そういう人が好ましいが、とりわけ若くて見目形の麗しい人の言葉づかいがしっかりしているのは、いつまでも心に残って、心が惹きつけられる。

 あらゆるものの難点は、物事に慣れた素振りで名人のように行動し、その場にふさわしいように誇らしげな態度で相手を見下し、馬鹿にするところにあるのだ。

       (『徒然草』二三三段)

 兼好は、見た目や言葉づかいだけではなく、「人を蔑(ないがし)ろにする」(相手を軽くみて侮(あなど)る)心に、全ての欠点の根幹があると語りました。「言葉は心の使い」と言われるように、心の内は自然と言葉や表情などの外見に表れるものです。「言辞施」は「心からの優しい言葉で接する」という教えです。同じ物言いでも、清らかな心から発せられたなら「柔軟語(にゅうなんご)」となり、口先だけなら「麤悪言(そあくごん)」となってしまうのです。

  なほざりの言葉の花のあらましを

   待つとせし間に春も暮れぬる

   (『風雅集』永陽門院左京大夫)

(かりそめの巧みな言葉が真実であってほしいと思いながら、あなたの訪れを待っていた間に春も暮れてしまったよ)

 「言葉の花」には「美しく華やかな言葉」の他にも「巧みなお世辞」という意味もあります。いくら飾ったとしても、心根(こころね)と切り離されていたなら色あせてしまうでしょう。これから咲き溢れる「花の言葉」に耳を傾けながら、私たちも「本物の言の葉」を繁らせたいものです。

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最後までお読みくださりありがとうございました。