坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「道」のお話⑥~ 覚道の花、一花に無数の仏さまを感じて ~ 「法の水茎」106

次々とかわいらしい花が咲き出しています。 

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毎日の変化が楽しみです。
お寺の境内には、晩春から初夏の花々が咲き乱れています。

さて、今月の『高尾山報』「法の水茎」も「道」がテーマです。仏さまに花をお供えする功徳や、花のような表情について書いてみました。お読みいただけますと幸いです。

なお、『高尾山報』4月号には書籍の紹介も掲載されました。

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よろしくお願いいたします。 

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「法の水茎」106(2021年4月号)

 

  春風の花を散らすと見る夢は
   覚めても胸の騒ぐなりけり
         (西行『山家集』)
(春風が花を散らしている夢は、目覚めてからも胸の騒ぎが治まらない)

 心地よい春風も、桜にとっては、散り際を知らせる合図となります。夢から目覚めての胸騒ぎは、現実の満開の桜を眺めて治まったでしょうか。あるいは、花びらは夢のようにハラハラと風に舞っていたでしょうか。

 実感することはありませんが、春は確実に通り過ぎていきます。日本列島を北上している桜前線は、聞くところによると時速1キロほどで進んでいるとか。今は、どの辺りの野山を薄紅色に染め上げているでしょう。やがて追いかけてきた晩春の風に誘われるように、新芽のみずみずしい緑が目に付くようになっていきます。

 4月8日は、お釈迦様がお生まれになった日です。この日行われる降誕会(ごうたんえ)(花祭り)という行事では、お釈迦様の誕生仏の頭上に参拝者が甘茶を注いでお祝いします。これは、降誕(仏の誕生)したときに竜王が香水(こうずい)を注いだという伝説によるものです。

 誕生仏を安置する小さなお堂(花御堂(はなみどう))には、色とりどりの花々が飾り付けられています。その時節に咲く花を「時の花」(時花(じか))と言いますが、例えば弘法大師空海(774~834)の『性霊集(しょうりょうしゅう)』には、

  時華一掬、

  讃一句、

  頭面一礼、

  丹宸(たんしん)を報ず。

   (『性霊集』「山中有何楽」)

(季節の花の一握りを供え、一句の讃(お経)を唱える。頭を地に着けて礼拝して、恩に報いる)

と見えます。わずかな行いであっても、仏さまとの縁は深まります。時花で飾られた花御堂を前に手を合わせ、感謝の誠を捧げてみてはいかがでしょうか。

 「一花一香(いっけいっこう)」という仏教語があります。仏さまに一つの花や一つの香をお供えする様子から「わずかな供養」を指します。「一花(いっか)」は「一輪の花」ですが、一つの花が咲いている時間は短いことから「ほんの一時」を表すようにもなりました。

 仏教語の「一花(いっけ)」には「仏さまの教え」「仏さまの現れ」という意味があります。「一花開けて天下の春」(わずかな花が開くのを見て春の訪れを知る)という言い回しがありますが、可憐な草花の姿には、仏さまの大いなる教えが込められているというのでしょう。

 仏さまに花をお供えする功徳については、次のような話があります。

 悉達太子(しったたいし)(お釈迦様の出家前の名前)の妃であった花色(かしき)の女人の顔の表情は、生まれたときから花のように輝いていました。また、鹿母夫人(ろくぼぶにん)という女性が歩いた跡には、いつも蓮華の花が開いていたと伝えられています。これらは皆、前の世(過去世)において仏に花を施してきた報いによるものなのです。

 もし賢い思いを巡らせて、十方の仏(あらゆる世界の無数の仏さま)に行き渡らせるならば、『華厳経(けごんきょう)』の中の「衆(もろもろ)の雑花(ぞうけ)を散ずること十方に遍く、一切の諸如来を供養せよ」(多くの色とりどりの花を、あらゆる方向に散らして、全ての仏さまを供養しなさい)という偈(げ)(韻文のお経)をお唱えなさい。

 もし取り乱した心で一枝の花を捧げるならば、『法華経(ほけきょう)』の中の「もし人散乱の心にて、乃至一華を以ても、画像に供養せば漸く無数の仏を見たてまつる」(落ち着かない心であっても、一つの花を捧げれば数多の仏さまと巡り会うだろう)という偈を力としなさい。
       (『三宝絵』東大寺千花会) 

 お経の散文を「散華(さんげ)」、韻文を「貫華(かんげ)」と呼びます。ここに引かれるお経の偈頌(げじゅ)(韻文)は、美しい花のような詩文でもあります。

 話に登場する二人の女性は、この教えを守りながら、日々仏に花を捧げてきたのでしょう。表情も穏やかで、優しい言葉遣いを「和顔愛語(わげんあいご)」と言いますが、花への愛情と信仰が、自らも花のような姿へと変えていったものと想像されます。

  ひとたびの花の香りをしるべにて

   無数の仏に逢ひ見ざらめや

       (選子内親王『発心和歌集』)

(ただ一度の花の香りを道しるべとして、無数の仏に逢えないことがあろうか。きっと逢えるよ)

 悟り(幸せ)への道を「覚道(かくどう)」と言い、仏さまに供える花を「覚道の花」と称します。春の花々が咲き誇る小道を歩きながら、無数の仏さまを心に感じてみませんか。一つ一つの花と会話をすれば、いつしかにこやかに微笑む自分に気付くことでしょう。

 

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最後までお読みくださりありがとうございました。