睡蓮のもとにも山桜の花びらが舞い降ります。
睡蓮が花びらを離すまいとしているようです。
今回の文章は、十善戒(じゅうぜんかい)の「不殺生(ふせっしょう)」をテーマに、ありのままを見つめることについて書いたものです。ここに引用した「そっとしておく愛情」は、私の好きな言葉の一つです。
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「法の水茎」46(2016年4月記)
桜散る 木の下風は 寒からで
空に知られぬ 雪ぞ降りける
(『拾遺集』紀貫之)
(桜が散っている。木の下を吹き抜ける風は寒くないのに、空から降ったわけではない雪のような花びらが舞っているよ)
今年はどのようなお花見をされたでしょうか。梢から舞い降りる薄紅色の花びらを見つけると、つい手を差し伸べたくなります。掌に収まった一片の桜を目にしたとき、何とも言えず幸せな気持ちになるのは、全身で春爛漫を感じ取ったからなのかもしれません。
高尾山にも多くの桜が植えられています。仁王門前の枝垂れ桜や奥の院の山桜も、きっと見頃を迎えている頃でしょう。こうした変わらぬ春景色は、幾代にもわたって受け継がれてきたものです。
高尾山薬王院の聖域を表す浄心門(じょうしんもん)をくぐると、左手に大きな、
殺生禁断
の石碑が建っています。「殺生禁断」(せっしょうきんだん)とは、「生き物を殺すのを禁じる」という意味です。「不殺生(ふせっしょう)」とも言い、仏教に限らず重く戒めています。
真言宗で重んじられる教えに「十善戒」(じゅうぜんかい)があります。お寺やお仏壇の前で、お唱えになっている方もいらっしゃるでしょう。「十善戒」には10種類の善い行いが説かれているのですが、その最初に挙げられているのが「不殺生」です。
「殺生禁断」は、日本においても古くから守られてきました。大宝元年(701年)に定められた「大宝律令」では、とりわけ身を清らかに保つべき六斎日(ろくさいにち)(毎月8日・14日・15日・23日・29日・30の6日間)には、人の命はもちろん、鳥や魚といった動物の命を奪うことも固く禁じています。
殺生をめぐっては、次のような話があります。
昔、下野国阿蘇沼(今の栃木県佐野市浅沼町)という所に、いつも鷹狩をして殺生をする男がいました。ある時、鴛鴦(おしどり)の雄(おす)を捕まえると袋に入れて持ち帰りました。
するとその夜の夢に、身なりも美しく上品な女房が現れます。本当に恨めしそうに涙を流しながら「どうして嘆かわしくも、私の夫の命をお取りになったのですか」と話すのでした。男が「身に覚えがない」と答えると、女房は「確かに今日、夫を召し捕って行ったのに」と悲しみながら、
日暮るれば いさやと云ひし 阿蘇沼の
まこも隠れに 独りかも寝む
(日が暮れると、さあ床に就こうと言ってくれた夫がどこにもいない。これからは阿蘇沼の真菰(まこも)の陰で、ただ独り眠ることになるのでしょう)
と歌を詠むと、ふわふわと飛んで行きます。その姿を見上げると、なんと鴛鴦(おしどり)の雌(めす)でした。
男は驚き、深く反省します。それからは殺生をすることなく、出家して仏道修行に明け暮れたのでした。
(無住『沙石集』)
仲睦まじい夫婦を「鴛鴦夫婦」(おしどりふうふ)と言い、それは鴛鴦の雄と雌とが、いつも寄り添っているところから名付けられたと言われます。「相思相愛」を引き裂かれた女房の心中は、どれほどの痛みに打ちひしがれていたのでしょう。
鷹狩の男は、鴛鴦の雌が人間の姿となって現れたことにより、殺生の罪の意識が芽生えました。もし鳥のままだったら、変わらぬ日々が続いていたかもしれません。
と、この話を読むと、人間と同じように全ての命を大切にしなければと改めて思うのですが、かく言う私自身、たくさんの命に生かされているにもかかわらず、日常生活に忙殺されて、大事なことを忘れがちになっているように感じます。
人の命と動物の命について、先ほどの『沙石集』では、このようにも語っています。
人間を殺せば、訴えによって裁かれます。しかし、動物は訴えることができないので、山野や川に住む動物を、人間の心のままに殺して食べているのです。訴えないからといって、殺生を恐れないのは愚かなことです。
人は、これまでいただいた命を、何世代にもわたる恩人として感謝しなければなりません。
(無住『沙石集』)
人も動物も同じ命と肝に銘じ、これまで得てきた多くの恩を噛み締めることが大切なのでしょう。それは「不殺生」という言葉が、身近な戒めとして見えてくる第一歩のように思われます。
高尾山薬王院前御貫首山本秀順師(1911~1966)の言葉に、
そっとしておく愛情
という教えがあります(『高尾山報』28号)。私の座右の銘でもあるのですが、師は「生きているチヨウに手をふれないでそつとしておく、咲いている花を折りとるのではなく、しずかに鑑賞する、それが愛の最高の姿」として、「不殺生」の教えが動植物にまで及ぶことを示されました。
「そっとしておく愛情」とは、相手に楽しみを与える「慈」、相手の苦しみを取り除く「悲」、相手の幸せを共に喜ぶ「喜」、相手に対して落ち着いた心でいる「捨」という人間にとって大切な4つの心「四無量心」(しむりょうしん)の中でも、とりわけ「捨の愛情」に当てはまると説かれています。己の欲望のままに行動してしまうことが多い中で、有りの儘を見つめることが心の安心につながることを諭してくださっているように感じます。
先人が残した恩徳を「余薫」(よくん)と言います。高尾山の春の香りは、古から受け継がれてきたものに他なりません。「殺生禁断」の教えを胸に刻めば、自分自身もいつしか「朽ちることのない余薫」を身につけることができるでしょうか。桜の花びらを散らす風を恨むこともなく、ひらひらと舞う花びらを眺めながら、枝先に芽吹く、小さな若葉を探してみます。
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最後までお読みくださりありがとうございました。