坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「不偸盗」のお話①~白く砕ける波、心の乱れ~「法の水茎」47

ゴールデンウィーク中に多くの田んぼに稲が植えられました。
農家の皆さま、お疲れ様でした。
まずはゆっくりと休まれてください。

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木枠

何気ない田舎の風景も、木枠を通せば絵画のように見えるでしょうか。


今回の文章は、十善戒の「不偸盗(ふちゅうとう)」をテーマに、身の罪ついて書いたものです。今は亡き父の話を書き留めました。
 
    ※      ※

「法の水茎」47(2016年5月記)



  江(こう)碧(みどり)にして
  鳥逾(いよいよ)白く
  山青くして
  花然(も)えんと欲す
  今春看(みすみす)又過ぐ
  何(いず)れの日か是れ帰る年ぞ
      (杜甫(とほ)『絶句』)
(河は緑に輝いて、鳥はますます白く引き立ち、山は青く際だって、花は燃えるように真っ赤に色づいている。今年の春もみすみす過ぎ去ってしまった。いつになれば故郷に戻ることができるのだろう)

 この漢詩は、中国の詩人杜甫(712〜770)が、戦を避けて移り住んだ場所から、故郷を思い慕って詠んだものです。鮮やかな春の装いに囲まれながら、いまだ故郷に立ち帰ることのできない辛い心情が込められています。

 思えばこの春も、駆け足で通り過ぎていったように感じます。ただこの束の間に、突如として襲った熊本を中心とする大地震は、大地と心に大きな爪痕を残していきました。今なお、胸を締め付けられる思いで、月日を重ねている方々もいらっしゃるでしょう。一刻も早く、以前の故郷での生活が戻りますことを、心より願い続けて止みません。

  茂りあふ 青葉も辛し 木の間より
   光を花の 夏の夜の月
         (『文亀三年歌合』政顕)
(茂り合っている青葉もよそよそしく見える。木の間からは、光を花のように散らしている夏の夜の月が輝いている)

 ぎこちなかった若葉の梢も、少しずつ落ち着いた青葉へと移り変わってきました。勢いよく重なり合う新緑に、夏の足音を告げる月光が静かに降り注いでいます。季節は今、瑞々しい初夏を迎えています。
 
 先月号では、10種類の善い行いのはじめとして「不殺生(ふせっしょう)」を取り上げました。続いて今回は2つ目の「不偸盗(ふちゅうとう)」の教えについて書いてみたいと思います。

 「偸盗」の「偸」も「盜」も「他人のものをひそかに奪い取る」という意味です。平安時代の説法書に「身の罪とは、殺生、次、偸盗をせず」(『百座法談聞書抄』)と記されているように、生き物を殺す「殺生」の次に強く戒められています。

 「偸盗」をめぐっては、私の父が時おり口にする話があります。

 昭和30年代の高尾山での出来事。いつものように山内のお堂を参拝していると、お地蔵様の足元に供えられていたお賽銭が、いつも夕方になると消えていることに気づいたそうです。それは何日か続きました。

 そこで「これは誰かがお金を盗っているのではないか」ということになり、何人かで待ち伏せをして、泥棒を捕まえようと試みます。

 ある日のこと。お賽銭を手にした男を見つけると、すぐさま、その場で取り押さえました。さっそく麓の駐在所に突き出そうと考え、まずはお寺に引き連れてきたのでした。

 すると、その騒動を聞きつけた高尾山薬王院前御貫首山本秀順師(1911~1996)は、大広間に皆を集めました。そして、次のように静かに語り始めました。「僧侶であれば、修行をして説法をするはずなのに、このように捕まえるとは何事でしょう。もしかすると、お腹が空いているのかもしれません。警察に連れて行くなどと言う前に、まずは食事を振る舞い、話を聞くべきではないでしょうか」と。一同はその言葉を聞くと、意気揚々と猛り立っていた心がおさまっていったのでした。
                 (住職談)

 この逸話を聞いたとき、私は兼好(1283頃~1352以後)の『徒然草』の一節を思い浮かべます。

 他人の心になってみれば、愛おしい親や妻子のために、恥をも忘れて盗みをしてしまうこともある。盗人を縛り上げ、悪事を罰するよりは、飢えたり寒い思いをしたりしないように、世の中を治めるべきではないか。

 人は、生活が安定していないと、心も落ち着かない。追い込まれて盗みをするのだ。世の中が良くならなければ、罪は消えるはずもない。法を犯させておいて、罪を罰するのは可哀想なことではないか。
            (『徒然草』142段)


 罪を戒め、罪を犯せば罰せられることは、至極当然のことのように思います。しかし同時に、その背後に隠れている困難にも目を向けなければならないのでしょう。

 「偸生(とうせい)」という熟語があります。「生命を盜む」ことから、「無駄に生きながらえる」という意味です。人間は、何気ない日常の中で、何も盜んでいないつもりでも、生きるために肉や野菜を食べ、動植物の命を奪っています。知らず知らずのうちに「身の罪」を「積み重ね」てしまっているとも言えるでしょう。

  自らの資財に於いて
  常に止足を知り、
  乃至草葉も
  与えられざれば取らず。
        (空海『十住心論』)
(自分が持っている物でいつも満足し、葉っぱ1枚でさえ、決して取ることはしない)

 中国の故事にちなんで、日本では盗人のことを「白波(しらなみ)」と呼びます。白く砕ける波は、もしかすると心の乱れを表しているのかもしれません。荒れ狂う波が凪いで、穏やかになった水面にこそ、まどかな心月が光り輝くのでしょう。

 

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最後までお読みくださりありがとうございました。