坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「時間」のお話⑩ ~ 『方丈記』と『徒然草』、「変らないもの」と「変るもの」 ~ 「法の水茎」94


やわらかな春風が吹き抜けるたびに、はげしい花吹雪が舞っています。

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「春を惜しむ」(惜春)という言葉が似合う折節です。

今月の私の文章は、引き続き「時間」をテーマに、四季折々に含まれる「走り・旬・名残」や、自然の命の輝きに目を向けることの大切さについて書いてみたものです。よろしければ、お読みいただけますと幸いです。


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「法の水茎」94(2020年4月記)

 


 今年の春は足早にやって来たようです。気象庁は、3月14日に東京での桜の開花を発表しました。観測史上最速の開花)宣言だそうです。

 高尾山の麓、ケーブルカー清滝駅前広場のソメイヨシノも、3月中には満開の春爛漫を迎えました。桜前線は、山麓から中腹の薬王院へと歩を進め、今は山頂のヤマザクラが見頃となっているでしょうか。全世界で疫病が流行している中にあっても、自然の営みは何ら変わることなく、私たちの心に温もりを与えてくれています。

  桜花 散りぬる風の なごりには
   水なき空に 波ぞ立ちける
          (『古今集』紀貫之)
(桜の花が春風に吹かれ、その通り過ぎた風の余韻として花びらが散っている。それはまるで、水のない空に波が立っているかのように)

 桜の花は、咲いた順に散っていきます。その折を知って、春風は吹き抜けるのでしょうか。この歌の第三句「なごり」には、花の「名残(なごり)」と波の「余波(なごり)」が掛詞として詠み込まれています。作者の貫之は、空を海に喩え、散る桜の花びらを、風が静まった後もなお立っている波に見立てました。はらはらと散る花びらは、通り過ぎた春風の道を知らせる置き土産かもしれません。

 「名残」といえば、日本料理の世界には、「走り・旬・名残」という3つの言葉があるそうです。初物と呼ばれる「走り」、最盛期の「旬」、去りゆく時節を惜しむ「名残」というように、季節の移ろいを表しています。四季折々の豊かな食材を味わうことができるのも、四季を持つ日本ならではの楽しみでしょう。

 春の「名残」の時期にも「旬」があり、そこには既に初夏の「走り」も準備されています。言い換えれば、今この一瞬が「旬」であり、「旬」には「走り」と「名残」も含まれていることになります。こうした細やかな季節の移ろいに思いを馳せることは、仏教で言うところの無常観(むじょうかん)(全ての移り変わりを心静かに観じること)にも通じるところがあるような気がします。

 無常観を語る古典文学作品といえば、『方丈記』の冒頭を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。

  行く河の流れは絶えずして、
  しかも、もとの水にあらず。
  よどみに浮ぶうたかたは、
  かつ消え、かつ結びて、
  久しくとゞまりたる例なし。
  世中にある人と栖(すみか)と、
  またかくの如し。
         (『方丈記』序章)

 以前にも書かせていただきましたが(『高尾山報』594号)、鴨長明(1155頃~1216、出家して法名・蓮胤(れんいん))は、実際の川を眺めながら、そこに「変らないもの」と「変るもの」を感じ取っています。

 時の流れに目をやれば、「よどみ」という言葉も注目されます。「よどみ」は「澱(よど)み」(淀(よど)み)と書き、「流れが滞ること」を意味します。川の澱んだところでは、水の泡(泡沫)が消えたり生まれたりしているように、人間もまた死んだり生まれたり、住まい(栖)も壊したり建てたりを休むことなく繰り返しています。「澱む」の対義語は「流れる」ですが、私たちは川のような時の流れに身を置きながら、少し流れが弱まった「澱んだ世の中」(濁世(じょくせ))に生きているのでしょうか。さまざまな煩悩(ぼんのう)(欲望)や俗世の汚れに染まらない、清らかで美しい「泥中(でいちゅう)の蓮(はちす)」という言葉が思い出されます。

 兼好法師(1283頃~1352以後)の『徒然草』にも、無常について語られた章段があります。

 古歌に詠われる飛鳥川の淵や瀬のように、この世の中は常に姿を変える無常の世である。時は移り、物事は過ぎ去って、喜びも悲しみも入り交じって流れていく。華やかだった土地も、人の住まない野原となり、同じ家が残っていたとしても住人は変わってしまっている。

 毎年のように花を咲かせる桃や李(すもも)は何も語ることをしない。いったい私は、誰と遠い昔話をしたら良いのだろう。それにもまして、見たこともない古の高貴な方が住んでいた跡などは、とても儚く感じるものである。
            (『徒然草』25段)

 兼好もまた、この世を川に喩えています。住人の変化についても『方丈記』に通ずるものがあるでしょう。長明や兼好の時代から現在にかけて、人も家も存在していますが、同じ人も同じ家もあり続けてはいません。それは、春夏秋冬、その時その時を彩る草花にしても、一見毎年咲いているように見えて、次の世代へと受け継がれているのです。

  いづかたに にほひますらむ 藤の花
   春と夏との 岸をへだてて
            (『千載集』康資王母)
(こちら側の春の岸と、あちら側の夏の岸と、藤の花は、どちらが色美しく咲くのだろうか。私が今いる川の両岸には、藤の花房が優雅に枝垂れているよ)

 「藤」には「淵」が掛けられています。藤の花の深い色合いは、春と夏のどちらの光に似合うでしょう。季節の変わり目の川をゆっくりと下りながら、濁世(じょくせ)に染まることのない自然の命の輝きを、しっかりと目に焼き付けたいと思います。



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最後までお読みくださりありがとうございました。