坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

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「時間」のお話③~一瞬の花火、大輪の花~「法の水茎」87

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遠くから稲刈りのコンバインの音が響いています。

虫の声とともに、涼しい秋風も感じるようになってきました。

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春先には黄色い草花が目立っていた境内の庭。
今は白い花が多く咲いています。まさに秋の色といった風情です。

毎月書かせていただいている『高尾山報』「法の水茎」も、8年目に入り87回目となりました。

今回の文章は「時間」の「刹那」をテーマに、この一瞬に目を向けることの大切さについて書いたものです。

なお『高尾山報』の全体は、高尾山薬王院のホームページ上で公開(PDF)されています。ご覧いただけましたら幸いです。

www.takaosan.or.jp



    ※      ※

「法の水茎」87(2019年9月記)




  かつ消えて 石ともならぬ 星くだし
   闇の現の 中空にして
             (『浦のしほ貝』)

((花火が打ち上げられ)次々と消えて、石にもならない星が尾を引く。静寂の暗闇に戻っても、心はまだ落ち着かない、上の空のままで)

 今年も日本全国で花火大会が開催されました。日本での花火の古い記録としては、室町時代(1447年5月5日)に、お寺の境内で花火と思われる「風流事」を行ったとか(『建内記』)、江戸時代(1613年8月)に、徳川家康(1543~1616)が城内で花火を見物したという記録などが残されています(『駿府政事録』)。江戸時代からとしても、既に400年以上の歴史になります。

 江戸時代初期の書物には、花火舟からの見物の様子が次のように記されています。

 東西南北、あちらこちらで打ち上げられるので、ほとんど日中のような明るさで、玉火が発射する時の筒音や流星が上がる時の響き、人が騒ぐ声などによって、心静かに漕ぐ舟もない。

 天竺(インド)、震旦(中国)はいざ知らず、日本が始まってから、今この御世は治まっていて、国土安穏、民衆は心安らかに愁いを知らない時だけれど、とりわけこの舟遊びは命の洗濯というものだろう。
     (戸田茂睡)『紫の一本』)

 今と変わらぬ花火大会の光景ではないでしょうか。「命の洗濯」とあるように、世事の苦労から解放されて、寿命が延びるような楽しい心持ちになります。

 冒頭の「かつ消えて」の歌は、江戸時代末期の熊谷直好(1782~1862)が花火見物の際に詠んだものです。歌の中に「星」と見えますが、花火の種類には、開花した途端に色を飛ばす「牡丹星」や、光跡を残して引く「菊星」など、「星」の用語が多く散りばめられています。色とりどりの花がパッと咲いたかと思うと瞬時に消えゆく光景は、まるで流れ星が輝き去るような早さです。

 歌の下の句には「闇の現の中空にして」とあります。「闇の現」という言葉は「闇の中での現実。一寸先も定かでないこの世」を意味します。花火の星が一瞬にして消えたかと思うと、少し遅れて、暗闇の中から爆発音が胸に轟いたのでしょうか。その衝撃や、花火の残像、次の花火への期待など、さまざまな感情が入り交じった状態でしょう。「中空」には、暗闇の「虚空」とともに、落ち着かない「上の空」の心も込められています。

 「闇の現」と似た意味合いに「一寸先は闇」という言い回しがあります。「一寸」は「短い距離」とともに、仏教語の「刹那(せつな)」や「須臾(しゅゆ)」と同じように、意識されることのない「僅かな時間」も表しています。「人の一生は、ほんの少し先のことでさえ全く分からない」という喩えです。

 花火は打ち上がってから消えるまでに、5から10秒と言われますが、人生という道程も、見えたと思った側から、消えゆくものなのかもしれません。炸裂の音が、その短さを呼び覚ましてくれるような気もします。

 人生の儚さをめぐっては、『徒然草』に次のように説かれています。

 少しの時間を惜しむ人は少ない。これはよく物事を分かっているからなのか、単に愚かなのか。愚かな怠け者のために言うなら、一銭という金額は軽いといっても、これを積み重ねれば、貧しい人を富める人にできる。だから、商人は一銭を惜しむのだ。刹那という一瞬は意識されないといっても、これをずっと続けていると、命を終える時がたちまちやって来る。

 だから、仏道を志す人は、遠い未来ばかりを思って月日を惜しむべきでない。むしろ、ただ今のこの一瞬(一念)が、空しく過ぎるのを惜しむべきだ。もし人が来て、お前の命は明日必ず失われるだろうと告げられたら、今日という一日が暮れるまで、何事を頼み、何事をするだろうか。我々が生きている今日は、その最期の日と違わないのだ。

 一日のうちに、飲食・便通・睡眠・会話・歩行など、やむを得ないことで多くの時を使ってしまう。その残りはいくらも無いのに、無益な事をして、無益な事を言い、無益な事を考えて時を過ごし、月日を浪費して一生を送るのは、全く愚かなことである。
          (『徒然草』108段)

 兼好法師が言うように、一日には睡眠など、生きる上で必要な、無くすことができない時間が多くあります。目覚めていても、常に瞬きといった無意識の暗闇を作り出します。「月日が経つのは早い」とよく口にしますが、この一瞬一瞬に目を向け愛惜することができたなら、人生は思った以上に長く豊かなものになるのかもしれません。

  人天の楽は
  なほし電光のごとし
  須臾にすなはち捨つ
     (『実材母集』)

(人と天人の悦楽は、まるで稲光のような一瞬のもの。僅かの間に結局捨て去る)

 人はどうしても慌ただしい日常生活を送り、気づけばいくつもの年月を重ねてしまうものです。ただ、花火を見つめる眼差しのように、瞬間瞬間に心を留めることができたなら、人生は豊かな大輪の花となって夜空の星と輝くのでしょう。

     ※      ※

最後までお読みくださりありがとうございました。


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