坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「時間」のお話⑧~「心の鬼」を退治して~「法の水茎」92


日だまりで福寿草が顔を出しています。

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福寿草(フクジュソウ)


花言葉は「永久の幸福」。春と幸せを告げる黄色い花です。



今月の私の文章は、引き続き「時間」をテーマに、「心の鬼」の追い払い方や、今この一瞬に目を向けることの大切さについて書いたものです。よろしければ、お読みいただけますと幸いです。


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「法の水茎」92(2020年2月記)

 



「鬼は外、福は内」

 新たな春を前にして、大きな掛け声が響き渡ります。2月3日の節分は、冬の最後を飾る日。皆さまの心の中には、どのような思いが芽生えていらっしゃるでしょうか。

  年ごとに 人はやらへど 目に見えぬ
   心の鬼は ゆく方もなし
          (異本『賀茂保憲女集』)
(毎年、鬼を装った人は追い払うけれど、目に見えない心の中の鬼はどこへも追いやる術がない)

 日本では古くから、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられてきました。鬼をめがけて豆を撒く風習は、すでに室町時代には行われていたそうです。諸説ありますが、「豆」という言葉の響きは、「魔が姿を消す」という仏教語の「魔滅(まめつ)」にも通じることから、鬼に豆を当てることによって災いを取り除き、これから一年の無病息災を願ったと伝えられています。

 ただ、冒頭の「年ごとに」の歌にあるように、目に見える鬼はともかく、見ることのできない「心の鬼」は、どのように退治したら良いのでしょう。

 「心」と「鬼」を含む四字熟語に「疑心暗鬼(ぎしんあんき)」(「疑心暗鬼を生ず」の略)があります。「心に疑いの気持ちがあると、何でもないことまで恐ろしく思ったり、疑わしく感じてしまうこと」の喩えです。日常生活でふとよぎる不安や恐れは、もしかすると疑いの心など、心の奥底に隠れている「邪(よこしま)な心」(暗鬼(あんき))の仕業だったのでしょうか。

 季節はこれから、本格的な春へと向かっていきます。野辺の草花の蕾も、日一日とほころんでくるでしょう。もしかすると、私たちが気づかないだけで、一瞬一瞬違った表情を見せているのかもしれません。

 これまで述べてきたように、仏教では「全てのものが移り変わること」を「無常(むじょう)」と言い、この「一瞬にも生まれたり滅んだりを繰り返していること」を「念々無常(ねんねんむじょう)」(刹那無常(せつなむじょう))と呼びます。

 例えば、空の稲妻(稲光)は、肉眼ではパッと瞬時に光っているように見えます。しかし、特殊カメラで撮影してみると、雲と地面の双方から電光が伸びているのが分かります。さらに、一瞬に見える落雷の間には、いくつかの雷撃が約〇・〇五秒の間隔で繰り返される場合もあるそうです。

 こう思えば、自然の移ろいなどは目にも留まらぬ早さで変化しているのでしょう。それは見えるものだけではく、覗き込むことのできない自分の心の中も同様と思われます。短い間にあらゆるものが生まれては消え、消えては生まれ、時には不安や恐れの感情も顔を出します。

 短い人生をどのように生きるかを説く話に、次のようなものがあります。

 都に名高い僧がいました。仏事に招かれて多くの布施(ふせ)をもらって帰る途中のこと。待ち伏せしていた強盗たちに、全てを奪われてしまいました。

 僧は、一時の利益のために大罪を犯した強盗を嘆かわしく思い、我が身が災難に遭っていることも忘れ、ただ強盗たちの来世での苦しみを思って悲しみました。そして、「どうして電光朝露(でんこうちょうろ)のように儚い身のために、無数の苦しみの原因を作るのか」と澄んだ声でお経を唱えました。強盗は、僧の言葉の意味は分かりませんでしたが、何となく貴く感じられて、気づけば構えていた矢を下ろしていました。

 僧はさらに、「人の一生は夢や電光、朝露のようなもの。百年の寿命も一夜の眠りと同じ。このような僅かな現世を生きるために、そなたたちは地獄に堕ちるような悪行をしているのだ。せっかく人の身と生まれて仏法に巡りあったのに」と泣きながら語ると、強盗も思わず涙して立ち去っていきました。

 さて次の日のこと。強盗の一人が僧のもとにやって来ました。「昨夜の御説法に発心(信仰心を起こすこと)して、強盗は皆入道(にゅうどう)(修行の身)となりました」と語ると、30人ほどの切った髻(もとどり)(髪を束ねたもの)を置いていったのでした。
             (『沙石集』)

 僧の説法は、しっかりと強盗の心に伝わりました。これまで誰も教えてくれなかった人生の短さや、短いからこそなすべきことを気づかせてくれたのでしょう。僧の揺らぐことのない慈悲心(じひしん)(相手に楽しみを与え、相手の苦しみを取り除く心)が、「心の鬼」を追い払ったものと考えます。

  石火(せっか)の光の中
  一刹那(いっせつな)、
  あはれあだなる
  浮世(うきよ)かな
             (『太平記』)
(人の寿命は、石火の光のように一瞬のもの。何と儚い世の中か)

 「心の鬼」には「取越し苦労」も含まれます。不確かな将来を考え、徒(いたずら)に心配をするよりも、今この瞬間に目を向けてみてはいかがでしょうか。この春を機会に、さまざまな心の鬼を、その都度(つど)しっかりと取り払っておきたいものです。



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最後までお読みくださりありがとうございました。