坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「無常」のお話⑪~風に散る花、はかなさを自覚して~「法の水茎」82

アジサイが見頃を迎えています。

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アジサイ(紫陽花)

同じアジサイでも、一日一日、微妙に色合いが変わっています。
昨日とは別の花を見ているかのように映るのは、不思議なものですね。


今回の文章は、「無常」をテーマとして、自然の中に無常を感じることの大切さについて書いたものです。

    ※      ※

「法の水茎」82(2019年4月記)





 春も中頃を過ぎて、梅から桜の季節へと移ってきました。寒々としていた近所の畦道にも、日に日に春の草花が芽吹いて、気づけば可憐な花の小道へと色変わりしています。

  今年より 春知りそむる 桜花
   散るといふことは ならはざらなむ
          (『古今集』紀貫之)
(今年、初めて春を知った桜花よ、いつまでも咲いて、散ることは見習わないでほしい)

 日本のお花見は、古く奈良時代に遡ると言われています。貴族の間で行われていた梅見は、やがて桜見となり、江戸時代には広く一般にまで広がりました。

 現在では日本全国に桜の名所があります。高尾山にも、「高尾山十景」として「一丁平の桜」が挙げられています。麓よりやや遅れて、4月の中旬頃には、ヤマザクラやソメイヨシノの千本桜が、圧巻の春景色を見せてくれるでしょう。

 さて、この「今年より」の歌には、若木の桜が初々しく花を咲かせた、お祝いの気持ちも込められています。「ならう」には「習(なら)う」と「倣(なら)う」が掛けられているように、いつかは先輩の古木に教えられ従う時が来ても、今はただひたすらに元気いっぱい成長してほしいと願います。4月に入り、新入学や新社会人、新たなスタートを切る皆さんにもエールとして贈りたくなる一首です。

  花は根に 鳥は古巣に 帰るなり
   春のとまりを 知る人ぞなき
        (『千載集』崇徳院)
(春が過ぎれば、花は根に、鳥は古巣へと帰るという。でも、春の行き着く先を知っている人はどこにもいない)

 思えば春は、足早にどこに向かっているのでしょう。ひらひらと舞い散る花びらの捕らえどころがないように、それはただ散らす春風のみが知り得るのでしょうか。

 仏教語に「散華(さんげ)」という言葉があります。その名の通り「花を散らす」ことで、仏さまを讃えて供養するために花を振り撒くという意味です。もともとインドでは、花や香を地面に撒いてその場を清めました。花には蓮などの花びらが用いられましたが、日本では多く蓮弁をかたどった紙製の花弁が代用されます。皆さまの中にも、大きな法要で僧侶が撒いた散華の花を持ち帰られた方もいらっしゃるのではないでしょうか。散り敷く花びらには、仏さまを深く敬う心が込められているのです。

 桜の花をめぐっては、次のような話が伝わっています。

 これも今は昔のこと。田舎生まれの稚児(寺院に召し使われていた少年)が比叡山に登って修行をしていました。

 ある時、桜が素晴らしく咲いていたところに、風が激しく吹きつけているのを見て、この稚児は涙をしきりに流して泣いていました。すると、その姿を見ていた僧がやさしく近寄って「どうしてそうお泣きになるのです。この花が散るのが惜しいとお思いですか。桜は儚いもので、このようにすぐに散ってしまいます。ただそれだけのことですから、嘆くことではありませんよ」と言って慰めました。

 そうすると、稚児は「桜が散るのは、どうしようもないので辛くありません。それよりも、私の父親が作った麦の花が、この風で散ってしまって、実が入らないのではないかと思うと悲しいのです」と答えて、しゃくり上げながら「おいおい」と泣きました。本当に嘆かわしいことです。
          (『宇治拾遺物語』)

 これは教科書にも載る有名な説話です。稚児は桜吹雪の前で、さめざめと泣いていました。僧侶は、桜の散る定めを説いて慰めましたが、稚児は予想に反して、離れて暮らす父親が作った作物を心配して悲しんでいたのでした。

 話の最後に「うたてし」(嘆かわしい、情けない)とありますが、それは何に対しての言葉でしょう。風流を介さなかった稚児に向けての軽蔑かもしれませんし、反対に、父の境遇を理解してなかった僧侶に対しての不満かもしれません。あるいは、お互いに分かり合えていると思っていた2人の擦れ違いを嘲った言辞でしょうか。全ては読者の解釈に委ねられています。

 ただ、桜の花も麦の花も、風が散らしていることには違いありません。2人の意識の方向性は異なっても、風によってこの世の儚さを自覚していた点においては、共通していたと言えるでしょう。

  飛花落葉の風の前には
  有為の転変を悟り、
  電光石火の影の内には
  生死の去来を見る
       (三浦浄心『慶長見聞集』)
(風に散る花や紅葉に、この世の移り変わり(無常)を知り、きらめく瞬時の光に、生まれ変わりの輪廻を見る)

 桜は咲ききるからこそ散り際が美しいのでしょう。春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)たる穏やかな日和に、若木の桜の花びらを受けながら、力強く成長した初夏の新芽を探します。

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最後までお読みくださりありがとうございました。