坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「無常」のお話⑬~無常迅速、ちろりちろり~「法の水茎」84

やっと最新号まで来ました。
これまでお付き合いいただきまして誠に有り難うございました。
これから「法の水茎」のほうは、月1回の更新を目指していきたいと思います。

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お地蔵さま

お地蔵さまもお花を前にしてうれしそうですね。
いつも見守りくださりありがとうございます。

 

 今回の文章は「無常」をテーマに、無常は他人事ではなく自分自身に関わるものであることについて書いたものです。

    ※      ※

「法の水茎」84(2019年6月記)



  花の色に 染めし袂の 惜しければ
   衣かへ憂き 今日にもあるかな
          (『拾遺集』源重之)
(春の花の色に染めた衣服が名残惜しいので、衣更えをしたくない今日であることよ)

 6月1日は更衣(ころもがえ)(衣更え)です。僧侶の装束も夏衣に変わりました。衣更えは、平安時代から行われていた年中行事で、1年を2期に分けて、旧暦4月1日と10月1日に、お祓いの意味を込めて衣服や調度を改めたのが始まりとされています。6月からは夏、10月からは冬の装いへと変わります。

 最近では「クールビズ」という用語も定着してきました。環境省では、温暖化防止と節電を目的とした衣服の軽装化を推進しており、今年度は5月1日から9月31日を実施期間としています。始まりが衣更えよりも1ヶ月早いのは、夏の訪れが年々早まっているからでしょうか。

 冒頭の「花の色に」の歌では、春が名残惜しくて、桜色の春衣を脱ぐのをためらっています。ただ、この頃は5月中でも35度を超える猛暑日があり、むしろ早く脱ぎ捨てたくなるような気持ちにもなります。衣更えに春を惜しむという感覚は、今後は理解しがたくなっていくのかもしれません。

  あぢさゐの 下葉にすだく 蛍をば
   四ひらの数の 添ふかとぞ見る
        (藤原定家『拾遺愚草』)
(紫陽花の下の方の葉に集まる蛍は、4枚の花びらを増しているように見えるよ)

 陽が落ちて夕風が吹き抜ければ、少しは涼しさを感じるでしょう。庭先を眺めれば、雨上がりの紫陽花に、蛍が集まっているかもしれません。紫陽花は、集まるという意味の「集(あ)つ」と、濃い青色を表す「真藍(さあい)」が合わさって名付けられたと言われています。この歌では、紫陽花の青や紅の小さな花弁に、緑や黄色、オレンジ色の蛍の光が加わっているのでしょう。梅雨時期ならではの黄昏時の光景です。

 紫陽花は、土壌の性質や咲いてから散るまでの間に花の色を変えることから「七変化」「八仙花」などの異名を持っています。こうした変化する特徴から、紫陽花の花言葉の1つに「無常(むじょう)」があるのでしょう。

 これまでおよそ1年間にわたって、この世の全てのものは移り変わり、一瞬も同じ状態に留まらないという「無常」(常無し)をテーマとして書き進めてきました。これまで見てきたように、『平家物語』や『方丈記』の序章、西行(1118~1190)の和歌や「いろは歌」など、多くの文学作品に「無常」が表れています。その中には「移ろうからこそ美しい」という仏教的無常観が見られました。

 兼好法師(1283頃~1352以後)の『徒然草』にも、「無常」を語る章段があり、その中の1つに、次のような話が記されています。

 5月5日、上賀茂神社の競馬を見に行った時のこと。牛車の前に人々が立ちふさがって競馬を見ることができなかったので、牛車から降りて、馬場の柵の側まで近寄ろうとしました。しかし、その辺りには人がさらに多く、とても分け入れそうにありません。

 その時、向かいにある楝(おうち)(栴檀(せんだん))の木に登って、木の枝のまたに座って見物している法師(僧侶)がいました。法師は、木にしがみついたまま眠たい様子で、落ちそうになってから目を覚ますという状態でした。

 これを見た人々は馬鹿にして、「なんという愚か者だ。あんな危ない枝の上で眠るなんて」と言い合いました。

 その時、私は何とはなしに「私たちに死が訪れるのは今すぐかもしれない。それを忘れてのんきに見物をしている。その愚かさは、あの法師よりも勝っているのに」と呟いたところ、前にいた人々が「本当に仰る通りです。私たちこそ愚かです」と言って、皆が私のいる方を振り返って「こちらへどうぞ」と言って、場所を空けて入れてくれたのでした。

 これくらいのことは、誰もが思いつくのに、意外な言葉が胸に突き刺さったのでしょうか。人は、木や石ではないので、時によっては、このように心打たれるのです。
          (『徒然草』41段)

 ここに登場する兼好と覚しき人物は、冷や水を浴びせかけるような言葉を見物人に投げかけました。この世に生きる人々に対して、無常が他人事ではなく、自分自身に関わるものであることを鋭く説いたと言えるでしょう。生・老・病・死は、まさに自身の問題なのです。見物人もまた、日頃から無常の教えを学んでいたからこそ、この人物の言葉を受け入れることができたように思われます。

  世間は
  ちろりに過ぐる
  ちろりちろり
     (『閑吟集』)
(世の中は、目にも留まらぬ早さで過ぎていく。ちろり、ちろりと)

 室町時代の小歌の一節です。「ちろり」は、ほんのわずかな動き。「無常迅速」という格言があるように、世の中は極めて早く移り変わり、その中で人も紫陽花のように年齢に応じて様々に色合いを変えていくのでしょう。梅雨時の雨が「ぽつぽつ」「ザーザー」降るように、人の命は「ちろりちろり」と経(ふ)り行きます。

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最後までお読みくださりありがとうございました。