坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「時間」のお話⑦~電光石火、狭く小さな無常の世の中~「法の水茎」91

今日も風のない穏やかな1日でした。

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夕日が裏山の杉木立に差し込んでいます。
午後4時過ぎの数分だけの夕景です。

さて、今回の『高尾山報』の文章は、引き続き「時間」をテーマに、「電光石火」という「極めて短い時間」から、「速やかな人間の生死」について書いたものです。

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「法の水茎」91(2020年1月記)




  冬ながら 空より花の 散りくるは
   雲のあなたは 春にやあるらむ
        (『古今集』清原深養父)
(冬なのに空から花が散ってくる。そうすると雲の向こうは、もう春なのだろうか)

 いよいよ令和最初の新年を迎えました。辺りはまだまだ冬枯れの景色ですが、新春の野山は、今までとは何かが違っているように見えます。それは、年が改まるとともに、初心に立ち返る思いで気持ちを新たにしたからなのかもしれません。

 この「冬ながら」の歌では、花のような雪が詠われています。遠くから寒風に乗って降り来る雪を「風花(かざはな)」と呼びますが、雲の彼方から舞い落ちる「雪花(ゆきばな)」には、冬と春との両方を含んでいるような新しい彩りが感じられたのでしょうか。まさに、季節を先取りする感覚美です。

  鶴亀も 千年の後は 知らなくに
   飽かぬ心に 任せはててむ
        (『古今集』在原滋春)
(鶴や亀でさえ、千年後のことは知ってはいない。あなたの寿命に関しては、どんなに長くても飽き足らない私の気持ちのままに……どうか長生きをしてほしい)

 年齢の数え方の一つに数え年があります。生まれた年を一歳として、新年のたびに増えていきます。年齢を重ねることは喜ばしく、永久に続いてほしいと願いながらも、それがいつ限りを迎えるのかは誰にも分かりません。「鶴は千年、亀は万年」と言われる長寿でめでたい鶴や亀でさえ、明日の命は知るよしもないのです。

 月日は足踏みすることなく流れゆきます。おそらく今年も、気づけば三ヶ月が経ち、半年が過ぎというように、時はあっという間に推し移るでしょう。

 「電光石火(でんこうせっか)」「電光朝露(でんこうちょうろ)」という言葉があります。電光は「稲光」、石火は「石を打って出す火」、朝露は「早朝に草葉などに置く露」を表し、これらは全てが「極めて短い時間」を喩えています。さらにそこから派生して「人間の生死は速やかで、何事にも空しいこと」を意味するようになりました。

 人生が「電光石火」のように儚いことは、次のような逸話にも語り継がれています。

 高野山に滝口入道(たきぐちにゅうどう)という聖(高徳の僧)がいました。もとは斎藤時頼(さいとうときより)という侍でした。
時に、建礼門院(1155~1213)の雑仕(下級の女官)に「横笛(よこぶえ)」という名の女性がいました。滝口(斎藤時頼)は横笛を愛していましたが、父はこれを伝え聞くと「身分の低い者に心を寄せるとは何事か」と強く忠告しました。

 すると滝口は父に向かって、「西王母(せいおうぼ)(中国の不老長寿の女神)も、東方朔(とうぼうさく)(西王母の桃を食べて長寿を得たという文人)も、名前が残るだけで今はいません。老少不定(ろうしょうふじょう)(人の命は定まりないこと)は、ただ石火(極めて僅かの時間)の光のようなものです。たとえ長寿を保っても、七十、八十歳を越えることはありません。しかも、その中でも身体が元気に動くのは、たった二十年余りに過ぎません。

 夢幻のような儚い世の中で、恋しい者と連れ添えば父の命令に背くことになります。この苦難はきっと善知識(ぜんちしき)(仏道に入る良い機縁)なのでしょう。いっそこの憂き世(生きるのが苦しい世)を避けて、真の仏道に入ることにいたします」と言うと、十九歳の年に出家をし、その後はひたすら修行に励んだのでした。
            (『平家物語』「横笛」)

 滝口入道は、横笛への愛と父への恩との間で悩みました。父親に語った出家への思いは、さんざん苦しみ抜いた末に絞り出した決断だったのでしょう。恩愛の絆を断ち切ることが、父も横笛も裏切ることのない唯一の答えだったのです。

 後に横笛も出家し尼僧となって、滝口入道と同じ仏の道を歩み続けました。この世での再会は果たせませんでしたが、必ずや二人は来世で巡り逢い、揺らぐことのない「真実の愛」を結実させたでしょう。

 滝口入道が「老少不定の世の中は、石火の光にことならず」と語ったように、人の一生は長いようで短いものです。この無常(常に移り変わる儚い世)の中にあって、今生きている私たちはどのような日々を送れば良いのでしょうか。

  蝸牛(かぎゅう)の角の上に
  何事をか争ふ
  石火の光の中に
  此の身を寄す
        (白居易『白氏文集』)
(カタツムリの角(つの)のように小さな世界で、いったい何を争っているのか。人の一生は短い一瞬の中で生きているようなものだ)

 カタツムリに何かを近づけると角を引っ込めるように、狭く小さな無常の世の中では、ちょっとしたことでも過剰反応してしまいます。今年は思い切って殻から抜け出して、身心を解き放ってみませんか。天を仰げば、悠久無限に広がる大空から、今日も花のような白雪が、ひらひらと舞い降りているかもしれません。



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最後までお読みくださりありがとうございました。