坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

「道のり」のお話④ ~ 陸奥への玄関口、旅先で自分だけの秋を探して ~ 「法の水茎」160


立冬を迎えました。
物干し竿の先には赤トンボが羽を休めていました。


そろそろ越冬の準備でしょうか。

11月になってしまいましたが、先月号(10月)の『高尾山報』「法の水茎」です。東山道の道のりと、白河関にまつわる和歌について書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」160(2025月10月号)

 

 「暑さ寒さも彼岸まで」。お彼岸を迎えて紅白の彼岸花が咲き揃っています。いつしか松虫や鈴虫などの虫の音も賑やかに重なり合って、それは「虫時雨」という言い回しがあるように、涼やかな秋の訪れを告げているかのようです。

 秋の夜長の夜空にも、秋の風情が漂っているでしょう。

  澄みのぼる心や空を払ふらん

   雲の塵ゐぬ秋の夜の月

       (『金葉集』源俊頼)

(澄みのぼっていく心が、空を払い清めているのだろうか。雲一つない秋の夜の月よ)

 一雨ごとに大気中の塵が洗い流されて、月影も美しい折節となりました。今年の十五夜は10月6日、後の月と呼ばれる十三夜は11月2日です。心地良い宵晴れに外の面に出れば、皎々と照り輝く満月を独り占めできるでしょうか。仏教では、心に付いた汚れを「心の塵」と言いますが、澄みわたった月光に照らされたなら、いつしか心の中の雑念(煩悩)も消え去っているかもしれません。

 秋の「月見」や「虫聞き」は、春の「花見」や秋の「菊見」、冬の「雪見」とともに五つの風流と呼ばれるそうです。これから秋が深まれば「紅葉見」(紅葉狩)もあるでしょう。また菊には「星見草」という異名もあります。四季折々の彩りを愛でながら、身近な美しさを感じることができればと思います。

 時には月の光に誘われるように、秋の旅路に出かけてみるのはいかがでしょうか。

  白川の関屋を月の漏る影は

   人の心を留むるなりけり

       (西行『山家集』)

(白河の関の関屋に漏れ入る月の光は、この場所を通り過ぎた古人と同じように、私の心をも引き留めるよ)

 この歌は、平安時代末期の歌僧、西行法師(1118~1190)が、「白河関」(福島県白河市旗宿)で詠んだものです。白河関は、念珠関(山形県鶴岡市鼠ヶ関)、勿来関(福島県いわき市勿来)とともに「奥州三関」(奥羽三関)として知られ、都と陸奥(現在の東北地方)とを結ぶ「東山道」の要所に置かれた関所です。日本の山間部を抜ける総距離1200キロメートルにも及ぶ東山道の中にあって、白河関は陸奥への玄関口として重要な役割を担ってきました。

 都人にとって、陸奥は憧れの土地でもありました。西行の「白川の」の歌では、「もる」に「漏る」と「守る」とが掛けられています。これまで旅を共にしてきた月の光が、白河関では関を守る番人のように映っていたのでしょうか。白河関を通ってきた昔人と同様に、西行もまた未知なる場所を前にして気持ちを新たにしているようです。

 この「白川の」の歌の詞書には、平安時代中期の歌僧、能因(988~?)の和歌が引用されています。

  都をば霞とともに立ちしかど

   秋風ぞ吹く白河の関

      (『後拾遺集』能因法師)

(都を春霞が立つのと共に出発したけれど、いつしか秋風が吹いているよ、ここ白河関では)

 この歌では「春霞」と「秋風」とが比べられています。夏を挟んでの季節の移り変わりと、都から半年にも及んだ長旅を成し得た感動が詠われているようです。

 西行は、百数十年前に白河関を訪れていた能因に思いを馳せていました。僧侶でありながら和歌の道を追い求めた能因に、西行は強く心惹かれていたのでしょう。自分も同じ場所に立つことができたという喜びが伝わってくるようです。

 ちなみに、この能因の「都をば」の歌をめぐっては面白い逸話が伝わっています。

 能因法師は、これ以上ないほどの「数寄者(すきもの)」(風流を好む人)でした。「都をば」という歌を、都に住んでいながら見せるのは惜しいと思って、誰にも知られないように家に引きこもると、太陽の日に当たりながら長い夏を過ごしたのでした。

 そして秋を迎えて身体を色黒にした後に「陸奥の方へ修行に出かけたときに詠んだものです」と言って、人々に歌を披露したそうです。

      (『十訓抄』など)

 この話では、能因は東国に下向していません。歌の真実味を持たせるために日焼けを試みる姿は滑稽にも感じますが、本人にとっては至って真面目な問題だったのでしょう。

 ここで能因は「いたれる数寄者」と語られていました。「数寄」は、和歌や絵画、音楽や茶道などの「風雅の道に深く寄せる心」を意味します。日頃から芸術の高みを目指していたからこそ、寸分の妥協も許さなかったのかもしれません。そうした純粋に芸道を追い求める数寄者の姿は、取りも直さず一途に仏道修行に明け暮れる僧侶としての心とも矛盾することなく、重なり合っていたのではないかと考えます。

 江戸時代中期の俳人、服部土芳(1657~1730)の『三冊子』(「白冊子」)には、能因の「都をば」とともに次のような類似歌が挙げられています。

  都にはまだ青葉にて見しかども

   紅葉散り敷く白河の関

       (『千載集』源頼政)

(都を出る時は青葉の木々を見ていたけれど、はるばる旅をして来ると、紅葉が一面に散り広がっている白河の関であるよ)

 源頼政(1104~1180)もまた、白河関に辿り着いた際の心模様を詠っています。ただ、土芳の師である松尾芭蕉(1644~1694)によれは「色彩に注目した点において違いがある」とか。頼政は能因歌に詠まれた秋風を肌に受けながら、艶やかな紅葉色に包まれているのでしょう。

 夏が終わって、短い秋がやって来ました。季節の推移に無常(生滅)を感じながら、色とりどりの、自分だけの秋を探してみませんか。

 



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最後までお読みくださりありがとうございました。