坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「風」のお話③~貧女の一灯、信仰心の強さ~「法の水茎」6

 東京で桜が開花しましたが……栃木は風の強い一日でした。 

 

f:id:mizu-kuki:20190321215829j:plain

修行大師像

今日はお彼岸の中日です。
旧暦では2月15日。お釈迦様の亡くなられた日です。
日本に古くから伝わる「月の兎」伝説のように、今宵のおぼろ月夜は、私たちに何を教えてくれているのでしょう。

今日の文章は、前回に続いて「風」をテーマに書いたものです。

    ※      ※

「法の水茎」6(2012年12月記)


 平安時代の終わり頃(1180年頃)の流行歌に、次のような歌があります。

  仏は常に在せども、現ならぬぞあはれなる、
   人の音せぬ暁に、仄かに夢に見え給ふ
                       (後白河法皇撰『梁塵秘抄』)
(御仏は、常に私たちの傍にいらっしゃると言うけれど、実際にこの目で拝することはできない。しかし、ひっそりと静まりかえった明け方に、かすかに夢の中にお姿を現すことがあるよ)

 「あはれ」という言葉には「尊い」「悲しい」といった思いが込められています。「仏様のお姿を拝見したい」という切なる祈りによって、仏が夢枕に立ち現れたのでしょう。まさに日頃の願いが聞き届けられた、至福の目覚めであったのではないでしょうか。

 神仏は「風」のように、はっきりと目にすることも、手で触れることもできないものです。ただ、夢のような迷いの世界であっても、仏を祈る人々がいる限り、常に私たちを見守ってくれています。

  夢覚めむ そのあか月を 待つほどの 闇をも照らせ 法のともし火
                         (『千載集』藤原敦家)
(夢から覚める、その夜明けを待っている間、闇夜を照らしてほしい。法の灯よ)

 日本では、この時代の永承7年(1052)に「末法」の世に突入したと噂されました。末法とは仏の教えが廃れ、修行をする者も悟りを得る者もいなくなって、ただ教えのみが残る時期を言います。弥勒菩薩は、56億7千万年後の未来に、この世に現れて人々を救済するとされ、弘法大師空海(774~835)は、弥勒菩薩が住む兜率天で修行を積みながら、弥勒菩薩とともに蘇ることを言い遺しました。

 たとえ現世が末法の世であっても、この「夢覚めむ」の歌に見られるように、人々は仏への信仰を捨て去ることはありませんでした。前回お話ししたように、煩悩による苦しみが絶えない人間世界を「無明長夜」と言います。末法のような真っ暗闇では、どこに向かえば良いのかも分かりません。人々は、苦しい世の中だからこそ、仏・菩薩の出現を待ち望み、「法の灯」(法灯)を強く求めたのです。

 「法の灯」と言えば、神仏にお供えする「灯明」もその一つでしょう。闇夜(迷い)を破り、智慧の光を照らす「灯明」をめぐっては、次のような話が有名です。

 昔、天竺(インド)の阿闍世王という王様は、日頃から仏をお招きし、数々の宝物をお供えしていました。ある時、王宮から祇園精舎(釈迦のために建てた寺院)までの道沿いに、全世界から油をかき集めて明るく灯をともしました。

 この光景を、一人の貧しい女性が感謝の心で見つめていました。「私も何とか灯明をお供えしたいけれど、日々の食事の支度もままならないほど貧しくて、一つの灯明も買うことができない」と言って涙を流します。

 女性は、あらゆる手段をつくしましたが思うようになりません。結局、自らの髪を切り、髪を売った僅かなお金によって油を得たのでした。

 油屋の主人は不思議そうに尋ねます。「なぜお前は貧しいのに、食べ物ではなく油を買うのだ」と。すると女性は答えました。「私は幸いにも仏法に巡り合えました。とても供養をする力はありませんが、一つの灯だけでもお供えして、後の世の種としたいのです」。

 女性はやっとの思いで一つの灯を捧げました。するとその時、突然に暴風が吹き荒れ、数々の灯明を一度に吹き消してしまったのです。しかし、女性が捧げた灯だけは消えることがありませんでした。目連尊者(釈迦十大弟子の一人)は不思議に思い、袈裟を扇いで消そうとしますがますます光り輝きます。

 その様子を見ていた仏が言いました。「これは後の世の仏の光であるから消えないのだ。この女性はやがて成仏して須弥燈光如来という仏となるだろう。王の万灯の光も疎かではないが、この女性の志の深さ、信仰心の強さによって煌々と輝くのだ」と。

 この話は『賢愚経』などの経典にあるもので、日本においても多くの説話集に語り継がれています。たとえ僅かであっても、真心の寄進に増さるものはないという教えは、「長者の万灯より貧者の一灯」という金言を生み出しました。後世の人の心に、希望の灯をともした話と言えるでしょう。

 仏を前にして香を焚き、花を捧げ、蝋燭に灯をともすことを「三具足」と呼びます。私も必ず灯明供養を行いますが、ある時、檀家さんのお宅で読経をした際に、その家の年配の方からこんなことを言われました。「お経を読み上げると、御先祖様の炎が揺らめくの……」。その方は、日頃から敏感に「法の灯」を感じ取っていたのでしょう。私はその言葉にハッと気づかされ、さらに一心に祈らなければならないと自らを戒めたのでした。

  自らを灯明とし、自らをたよりとして、
  他人をたよりとせず、
  真理を灯明とし、真理を拠り所として、
  他のものを拠り所とせずにあれ
                           (『長阿厳経』など)

 釈迦の遺言として伝えられる言葉です。この「自灯明・法灯明」の教えは、現代においていよいよ光明を放っています。

 冬が近づき、まもなく冬至を迎えます。どんなに夜が長くても、法灯をたよりとし、また少しでも光を灯すことができたらと念じています。

     ※      ※

最後までお読みくださりありがとうございます。