坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

弘法大師空海のお話⑭ ~ 黄金に輝くお大師さまの身体は大日如来そのもの ~ 「法の水茎」136


こちらの花はタイワンホトトギスでしょうか(台湾杜鵑草)。


青空に向かって上向きに花を咲かせています。

いつの間にか、すっかり秋めいた庭になりました。


さて、今月の「法の水茎」も「弘法大師空海のお話」です。心の中に輝く月と、お大師さまが密教の教主である大日如来と一体化したお話について書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」136(2023年10月号)



 

  無常は春の花、

  風に随つて散りやすく、

  有涯は秋の月、

  雲に伴つて隠れやすし。

   (『平家物語』大原入)

(無常は、春の花が風に散りやすいのに似て、人生は、秋の月が雲に隠れやすいのに似ている)

 「月の秋」と称されるように、澄んだ夜空に月が清かに冴え渡っています。今月の二十七日には「後の月」と呼ばれる「十三夜」も巡ってきます。満月前の移ろいゆく月影を愛でながら、しっとりとした時を過ごすのもまた趣深いのではないでしょうか。

 春の花(桜)も秋の月も、風や雲によって揺れ動くから美しいのでしょう。冒頭の句の「有涯(うがい)」(有界(うかい))は、「限りある存在」という意味から「迷いの世に生きる人の一生」としても用いられるようになりました。どんなことにも「果て」があるからこそ愛おしく感じられるのかもしれません。

 ただ、人間の心の中には欠けることのない満月が輝いているようです。

  秋の夜は心の雲も晴れにけり

   まことの月のすむにまかせて

    (『続後撰集』法印良守)

(夜半の秋は心の中にある迷いの雲も晴れることよ。澄み渡る真如の月に任せていると)

 この歌は、真言密教の根本経典(中心となるお経)『大日経』の中に見える「心無所畏故、能究竟浄菩提心」(邪念がないのは、そのまま悟りを求める清らかな心である)の教えを詠ったものです(実際は『大日経』の注釈書『大日経疏(だいにちきょうしょ)』の言葉)。歌にある「心の雲」は身体や心を悩ませる「煩悩」を表し、「まことの月」は雲一つ無く照り輝く「心の明月」(真如の月)を意味します。遥か彼方にある秋の月を眺めながら、自身の心中の月を観照(冷静に見つめること)しているのでしょう。

 似た歌としては、鎌倉時代の醍醐寺(真言宗醍醐派の総本山)の稚児が詠んだ、

  尋ぬべき月はほかにもなかりけり

   心の内のすむにまかせて

   (『続門葉集』寂静院孫鶴丸)

(探し求める月は他所にはありません。自分の心の内にある満月のような月にゆだねて)

があります。この歌は真言宗で必読の書とされる『菩提心論(ぼだいしんろん)』という書物の中の「自心、満月の如し」(自己の心は満月のようなもの)を題にしたもので、やはり心の中にある「真如の月」(心の本体)を見つめています。少し難しくなりますが、書名の「菩提心(ぼだいしん)」は「悟りを求める心」という意味で、「菩提心」は別に「心月輪(しんがちりん)」(まことの心)とも言われます。雲間から月の光が降り注いでくるように、煩悩の雲や霧(悩み事)を一つ一つ払いのけているのかもしれません。

 さてここまで、『大日経』などのお経に説かれる心月の歌を見てきましたが、弘法大師空海(774~834)もまた、若き日に『大日経』の教えを学ぶために唐へと渡り、恵果阿闍梨(746~805)より真言密教の秘法を授けられました。お大師さまはその教えを、日本においてどのようにお示しなされたのでしょうか。『今昔物語集』には次のように語られています。

 その後、お大師さまは願い通りに真言宗を打ち立て、世に広く弘めました。その時、多くの宗派の学者たちは、真言宗で説くところの「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」(この身のままで仏になること)の教えに疑問を持ち、問い詰めました。

 そこでお大師さまは、その疑いを断つために、清涼殿(せいりょうでん)(天皇の常の居所)において南に向かい、大日如来の印を結んで観念しました。すると顔色が金色になり、身体からは黄金の光を放ちました。すべての人々はこれを見て頭を垂れて礼拝しました。

 このような霊験は幾度もありました。お大師さまは真言宗の教えを大いに弘め、嵯峨天皇(786―842)の護持僧(ごじそう)(天皇の無事を祈る僧)となって、僧都の位をいただきました。この国の真言教はここに始まったのです。

 その後、この流れを汲む者がその土地その土地にあって、真言の教えは今も盛んに弘まっている、と語り伝えています。

    (『今昔物語集』)

 生涯にわたって『大日経』を始めとする密教経典を学び、大日如来の印(定印)を結んで入定(にゅうじょう)(心静かな境地に入ること)なされたお大師さまは、そのお姿そのものが密教の教主である大日如来と一体化していたのでしょう。その篤い思いを感じ受けとめられた大日如来は、お大師さまの額を金色に、胸を黄金色に輝かせ、そして全身から光を放って「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」の姿を現したのです。

  仏はさまざまに

  いませども

  実は一仏なりとかや

  薬師も弥陀も

  釈迦弥勒も

  さながら

  大日とこそ聞け

    (『梁塵秘抄』)

(仏様はさまざまな形でいらっしゃるけれど、真実は一仏であるとか。薬師如来も阿弥陀如来も釈迦如来も弥勒菩薩も、そのまま大日如来であると聞くよ)

 仏様が悟りを開くと、人間や動物はもちろん、山川草木に至るまでのすべてが成仏する(心の迷いが解ける)という教えがあります(一仏成道(いちぶつじょうどう))。風清く月朗らかなる時、夜空に輝く満月を心に写して、「金色に輝く本来の心」を観じてみてはいかがでしょうか。



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最後までお読みくださりありがとうございました。