坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

「風」のお話②~お経は風の音~「法の水茎」5

今日は暖かな一日でした。
全国に先がけて長崎市内の桜の開花が発表されました。

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桜一輪

やはり栃木は寒いのでしょうか。

お寺の庭には、やっと河津桜が一輪ほころびました。

今回の文章は、前回に続いて「風」をテーマに、仏さまの風と、お経の声とのかかわりについて書いたものです。


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「法の水茎」5(2012年11月記)


 日本語には「風」にまつわる言葉が多くあります。心地よい「微風」から厳しい「暴風」まで、肌で感じる「風」はもちろんのこと、「風習」「風流」「風景」など、日常生活のあらゆるところで「風」が用いられています。実際には姿を見ることも、手でつかまえることもできない風ですが、日本人は常に身近に感じ、敏感にその存在を意識してきました。

 秋の終わりから初冬にかけて吹きつける、強く冷たい風を「木枯らし」と言います。木々を吹き枯らすことから「凩」とも書き、残った枯れ葉を一斉に吹き払います。

  吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ
                           (『古今集』・秋下)
(山から風が吹き下ろすと、たちまち秋の草木が萎れ始める。なるほど、だから山風のことを嵐と言うのだろう)

 「山」と「風」の2文字を組み合わせると「嵐」となります。「嵐」には「荒らし」という言葉が掛けられているように、すさまじい強風は、辺りの景色を冬の装いへと一変させるのです。

 冬の到来を告げる冷たい北風は、植物だけではなく、時に人の心の中をも激しく通り過ぎていきます。

  それならぬ 人の心の 荒き風 憂き身に透る 秋のはげしさ
                         (『正徹物語』「寄風恋」)
(想いを寄せる人の心が、急に変わってしまった心苦しさは、ちょうど秋の風の激しさにも似ていて、つらいことの多い私(憂き身)に深く沁みてくる)

 「秋」という季節は、心が冷え込む「飽き」(疎遠になること)にも通じます。日々の生活の中での「向かい風」を、ふと自覚する頃なのかもしれません。

 思い起こせば、これまでの人生の中で「向かい風」を感じる時期もありました。順風満帆な「追い風」ならともかく、「逆風」に直面したときに、皆さんはどのように向き合ってこられたでしょうか。つらさを抱えながら「苦しい」「寂しい」と呟いた方もおられるでしょう。

 これまで、御詠歌をお唱えしたり、滝行を行ったりして、心の中にある垢(煩悩)を洗い流し、仏の心と一体となることを書いて参りましたが、御詠歌などの詩歌や、お経を声に出して読み上げることを「諷誦」と言います。奈良時代の書物に「経を誦して疲るるを忘る。名付けて諷誦となす」と記されているように、神仏の御前でお唱えすることは、自身の悩みを消し去ることにつながります(法進『沙弥十戒并威儀経疏』)。

 亡くなった方の冥福を祈るために読まれる文章を「諷誦文」と言いますが、言葉によって「風」を起こすことを「諷」と呼び、それは神仏と結びつくことを意味しています。仏の心を込めた言葉を発したとき、すでに独りぼっちではないのです。

 また、こうした言葉による仏の風は、お経や説法(仏法の教えを説き聞かせること)を聞く(聴聞する)ことによっても得られます。

 鎌倉時代の真言僧侶、頼瑜僧正(1226~1304)は、僧侶による読経(声を出して経文を読むこと)や説法の声に触れて、次のような歌を詠みました。

  長き夜の 眠りもなどか 覚めざらむ 今日の御法の 風の音には
(長夜の眠りも、どうして覚めないことがあろうか。今日の仏法の風の音には(きっと目覚めることだろう))という意味になるでしょう。「秋の夜長」は、つい夜更かしをしてしまうものです。しかしこの歌では、目が冴えて眠れずにいるわけではありません。月も出ていない真っ暗闇の世界に漂い込んでいるというのです。これはどういうことでしょうか。

 歌にある「長き夜の眠り」とは、私たちが煩悩(妄念)に迷って抜け出せずにいる状態を、夜の闇に喩えた言葉です。仏教では、煩悩による苦しみが絶えない人間の世界を「無明世界」(娑婆)と言います。心を悩ませる迷いの世界は、全く光の差し込まない、冷たい闇夜(無明長夜)同然なのです。

 こうした煩悩の眠りから目覚めさせてくれたのは「御法の風の音」でした。「風の音」は秋の到来を告げるものですが、ここでは「迷いの夢」を覚ますものとして詠まれています。自然の風や説法の声に仏の慈悲心を感じたとき、「風の音」は煩悩の夢を覚醒させる「御法の風の音」へと変わりました。それは、まるで闇夜の灯火・闇の中の光明(仏・菩薩が放つ光)のような、救いの風であったことでしょう。

 なおこの歌は、弘法大師空海(774~835)の『般若心経秘鍵』という書物の内容を詠み込んだものです。説法を聞いたときの感動を歌に託したのかもしれません。

 最後にその書から、有名な一節を引用します。


  夫れ、仏法遥かに非ず、心中にして、即ち近し。
(そもそも仏の教えは、遙か彼方にあるのではなく、私たちの心の中にあって、まさしく近いものです)

 風が止んで穏やかになることを「和ぐ」(凪)と言います。「木枯らし」が何日も吹き続けることはありません。心の中の荒き風は、仏の風を起こし、お経の声に触れることによって治まるでしょう。その先には、冷え込みも和らいだ「小春日和」が待っているのです。

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最後までお読みくださりありがとうございます。