紅葉の見頃も終盤を迎えています。
イチョウの落葉とともに目を落とせば、地表にも可愛らしい花が咲いていました。
間もなく落ち葉のじゅうたんに、隠れんぼしてしまうかもしれませんね。
さて、今月の『高尾山報』「法の水茎」も「道」がテーマです。自然の営みの中に「真の友」を見出した詩人や、「人として目指すべき道」とは何かと言ったことについて思いを巡らせてみました。お読みいただけましたら幸いです。
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「法の水茎」113(2021年11月号)
秋が深まり、冷え込みが一段と厳しくなってきました。身近な木々もすっかり赤や黄色に色づいて、気づけば季節は「梢の秋」(秋の末)の装いです。「花は里より咲き初め、紅葉は山より染め初むる」と言われるように、春の桜の山登りとは反対に、紅葉が山頂から里のほうへと下ってきたようです。
秋の露いろいろことに置けばこそ
山の木の葉の千種なるらめ
(『古今集』よみ人しらず)
(秋の露が色とりどりに置くからこそ、山の木の葉は種々様々なのだなあ)
優美に綾なす紅葉は、いったい何が染め上げているのでしょう。現代であれば、昼と夜との寒暖差や太陽光、適度な湿度や水分による……となるのでしょうが、この「秋の露」の歌では、さまざまな色の露によって染められたと詠っています。「紅葉に置けば紅の露」(秋を感じる白い露も紅葉の上に宿ると赤く見える)という捉え方もある一方で、錦のようにきらめく露が、葉っぱを見事に色づかせていると感じられてもいたのです。
吹く風の色の千種に見えつるは
秋の木の葉の散ればなりけり
(『古今集』よみ人しらず)
(吹き渡る風の色がとりどりに見えるのは、秋の木の葉が散るからなのだ)
秋の紅葉は、落葉に先立って起こるものです。やがて初冬に吹き荒れる木枯らしによって、秋色の景色も一気に払い落とされるでしょう。彩られた紅葉が風に舞うのは、晩秋ならではの艶やかな光景です。
梢の一葉が、季節とともに若葉から青葉、紅葉から落葉へと姿を変えていくように、人間の一生もまた同じように移り変わっていきます。人の営みは、一瞬たりとも留まりません。悉達太子(しったたいし)(お釈迦様)が、「世間の法は、一人死す、一人生れぬ。永く副ふこと有らむや」(この世の定めは、一人が死ねば、一方では一人が生まれる。永遠に付き添うものはない)と説かれたように(『今昔物語集』)、私たちが生きる「無常の世」(全てのものが生まれたり滅びたりして、変化し続ける世の中)においては、儚さからは決して逃れられません。
こうした「無常」に対して「常住」という仏教語があります。あまり聞き慣れない言葉かもしれませんが、「常住」は「永遠不変」の意味で、私たちが住まう世(俗世)とは違った、仏さまの「悟りの世界そのもの」(浄土)でもあります。仏教では、こうした悟りに至るための教えや修行方法を「仏道」(法の道)と称しています。
仏道は「まことの道」(「真・誠・実」の道)とも呼ばれます。「人として本当に目指すべき道」のことです。仏教の教えを学び実践する「まことの道」は、お釈迦様が歩まれた修行の道をはじめ、さまざまなお経に説かれています。
「まことの道」をめぐっては、鎌倉時代の説話集にも次のように語られています。
白楽天は竹と水とを友として、いつも心を研ぎ澄ませ、その思いを詩に託していました。詩の中には「水は性質が淡泊なので、私の友である。竹は心が空(くう)であると悟っているので、私の師である。どうして限りないほど多くの人が生きる世の中にあって、力を浪費して、親しい友を求めることがあろうか」と見えます。
世間の人は、嬉しいときには友と連れ添い、恨みがあるときには友を嫉妬するものです。裕福なときには側に近寄ってきて、貧しくなると遠ざかっていきます。たとえ深い付き合いの友だとしても、中有(ちゅうう)の旅(冥土)まで一緒に連れ立つことはありません。
ただし、唯一「善知識(ぜんちしき)」だけは、実の道(仏道)への頼みとなる友となります。「善知識」には慣れ近づくべきです。
(『沙石集』)
ここに登場する中国の詩人、白楽天(772~846)は、俗世間の煩わしさを避け、山紫水明の自然の中での悠々自適な生活を求めました。流水を友とし、竹を師と仰ぎながら、自然の営みの中に「善知識」(仏道へと導く機縁)という「真の友」を見出していたのでしょう。
さとりゆくまことの道に入りぬれば
恋しかるべき故郷もなし
(『新古今集』慈円)
(私は真実に辿り着く道に入ったので、恋しいはずの故郷もない)
「まことの道」の終点には、仏さまの故郷があるのでしょうか。白楽天のような隠遁生活(世俗を逃れ、山奥に隠れ住むこと)とまではいかなくても、自然の清らかな鏡(お手本)で自心を照らせば、キラキラと錦織りなす「まことの道」が見つかるような気がします。
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最後までお読みくださりありがとうございました。