坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

弘法大師空海のお話⑰~お大師さまの和歌「さとりとは」 ~ 「法の水茎」139


お地蔵様の頭上に葉っぱが掛かっていました。


千両でしょうか。
視界が遮られているのでお取りしようかと思いましたが……これから降ってくる雪を防いでくれるかもしれないとも思い、そのままにしておきました。

さて、今回号もお大師さまの和歌をめぐって書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

※      ※

「法の水茎」139(2024年1月号)



 元日の空は「初空」、年が改まったことへの祝意を込めて「初御空(はつみそら)」とも呼ばれます。慌ただしく押し迫っていった年末から解き放たれると、身も心も晴れ渡った大空のように、何となく清々しい心持ちになるものです。新年を迎えた和やかな「淑気(しゅくき)」の中で、見るもの聞くもの全てが新鮮に感じられます。

  あらたまの年のはじめに降りしけば

   初雪とこそいふべかりけれ

    (『金葉集』修理大夫顕季)

(新しい年のはじめに雪が絶え間なく降っているので、これは「初雪」と言うべきですね)

 この歌を詠んだ藤原顕季(1055~1123)は、新年に降る雪を「初雪」に喩えました。通常はその年の冬のはじめの雪を「初雪」と言いますが、顕季は降り続く雪を、去年の雪と今年の雪とに分けて楽しんでいるのでしょう。「初雪は目の薬」という言い回しがあるように「新年の初雪」の清らかさに目を奪われているかのようです。

 この歌を贈られた藤原公実(1053~1107)は、次のような歌を返しました。
  朝戸あけて春の木末の雪みれば

   初花ともやいふべかるらん

    (『金葉集』春宮大夫公実)

(朝、戸を開けて春の木々の梢に積もっている雪を見てみると、それは真っ白な「初花」とも言えるのではないでしょうか)

 公実は枝先の雪を「初花」(その季節に初めて咲く花)に喩え、いち早く白花と巡り会えた喜びを詠いました。二人の雪への見方は異なっても、新年の訪れをお互いに言祝ぐ気持ちは同じなのでしょう。

 お正月は、一年中で一番楽しい時期でもあります。昔から「目の正月」と言われるように、鳥の「初鳴き」や花の「初咲き」などにも心癒やされるでしょう。たくさんの美しいものや珍しいものを見聞きしつつ、新春のお寺や神社に足を運んで「初祈り」をしてみるのも至福の一時かと思います。

 二十四節気の「大寒」(1月20日)を過ぎて「立春」(2月4日)が近づいてくれば、少しずつ春の息吹が感じられるでしょう。先月号では、弘法大師空海(774~835)の和歌を取り上げましたが、次のような歌もお詠みになっています。

  春風に波より池の薄氷

   とくればもとの水とこそなれ

     (『弘法大師全集』)

(春風で波立つ池の薄氷も、解ければもとの水になるよ)

 春になって薄くなった氷の上を春の穏やかな風が吹き抜けているのでしょうか。氷が解ける音を聞きつけて、冬ごもりしていた虫たちも動き出してくるかもしれません。

 さて、この歌には詞書(歌の題)に「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」と記されています。「煩悩」は「心を苦しめるもの」、「菩提」は「悟りの境地」という意味で、この二つを「即」(そのまま)という言葉でつないでいます。「煩悩あれば菩提あり」と言われるように、迷いの心(煩悩)があってこそ悟り(菩提)に至れるのでしょう。

 この「春風に」の歌では、池の「氷」と「水」が詠み込まれています。見た目は固体(氷)と液体(水)とで違っていても、解けてしまえば同じもの(「氷即水」)となります。第四句「とくれば」という語句には、氷が「解ければ」の意とともに、「思い解けば」(考えをめぐらして理解すれば)という意味合いも掛けられているようです。

 せっかくですので、もう一首、お大師さまの和歌をご紹介したいと思います。

  さとりとはさとらでさとるさとりなり

   さとるさとりは夢のさとりか

     (『拾遺風体集』弘法大師)

 この歌は、鎌倉期の私撰集『拾遺風体和歌集』(延慶元年〔1308〕以前成立)に見える空海歌です。仏教に関わる和歌が並んだ「釈教部」の巻頭歌として置かれていますが、なぜか『弘法大師全集』所収の「和歌集」には収録されていません。

 歌の内容を見てみると「さとり」という言葉が7回も繰り返されていて、一見、禅問答風の難解な歌のようにも見えるでしょう。「さとり」(覚)と「夢」という語句のみで歌が構成されています。

 初句に「さとりとは」とあるように、この歌では「覚りの世界」が解き明かされているようです。歌の意味は「覚りの世界とは、無心の境地で覚るのが真の覚りであり、意識して覚り得た覚りは夢のような覚りである」となるでしょう。「真の覚り」(無我の覚り)と「夢の覚り」(夢中の覚り)が比べられています。

 この歌はやがて、時代とともに広く知れ渡っていきました。今では「悟ろうと思うも迷い」(悟ろうと思うこと自体が執着であり迷いである)ことを解き示す歌として「ことわざ辞典」にも採られているほどです。ただし、お大師さまの歌としてではなく、誰が詠んだとも分からない「古歌」として挙げられています。もはやお大師さまの手を離れて、人々の心の中に深く浸透していった「覚りの歌」と言えるのでしょう。

 

 

     ※      ※

最後までお読みくださりありがとうございました。