坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

40年前の地元の調査報告書 ~ 『葛城の生活と伝承―栃木県塩谷郡喜連川町葛城―』(武蔵大学日本民俗史演習調査報告 5、1982年7月) ~

石段下の梅のつぼみもふくらんできました。

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遠くからでも、何となくつぼみの色づきが分かります。
春はすぐそこまで来ていますね。

本棚から40年前に出された調査報告書を出してみました。
『葛城の生活と伝承―栃木県塩谷郡喜連川町葛城―』(武蔵大学日本民俗史演習調査報告 5、1982年7月)

表紙です。

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現在はさくら市葛城ですが、まだ合併前の喜連川町葛城です。
地元民にとっては、興味深い情報が満載です。手元にあっても損はないです。

今でも古書店で売っていました。

www.kosho.or.jp


かつての「葛城村」の情報です。

葛城村 かつらぎむら[現]喜連川町葛城
喜連川村の南東、荒川流域の河岸段丘上に位置し、関街道(福原経由)が通る。地名の由来は往時葛城宿禰という者が住みついたため、いつしか葛城村とよぶようになったという(喜連川町誌)。中世は喜連川塩谷氏の所領であったが、江戸時代に入り喜連川藩領となり、幕末に至る。地名は永正七年(一五一〇)六月二〇日の下野国先達注文(米良文書)に「かつら木地蔵院門弟」とみえる。塩谷郡に属し、慶長年中(一五九六―一六一五)の豊臣給分村高調では五六一石(喜連川町誌)。寛永一〇年(一六三三)平三郎村が分離独立したため、慶安郷帳では田高二五四石余・畑高一七五石余。元禄郷帳では五六一石余、旧高旧領取調帳では九九五石余。天保期(一八三〇―四四)の家数三九(改革組合村)。安政期(一八五四―六〇)の家数五〇・人数一八〇(喜連川町誌)。  (後略)
『日本歴史地名大系』「葛城村」の項


地名の由来は、葛城宿禰という人名から名づけられたのですね。
「奈良県葛城市の風景に似ているから」という説も聞いたことがあります。

この葛城には成田山東光寺というお寺があります。
父が生まれた寺です。祖父は東光寺の住職でした。私も子供の頃から、よく遊んだ場所で、たくさんの思い出があります。

この報告書には、東光寺についての記載もあります。

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ちなみに明日、1月28日は大祭(初不動さん)です。一番厳しい寒さの中で、春を呼ぶ護摩たきが行われます。


以前、この本を頼りに葛城を歩いてみました。

こちらは、小学校の跡地。父の母校です。

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近くには城跡もあります。
葛城城の裏手の葛城龍害城跡に登ってみました。結構な急斜面です。

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上からの眺め。

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良い眺めですね。葛城が一望できます。遠くには東光寺も見えました。

栃木県さくら市(旧喜連川町)の城跡(「余湖くんのホームページ」より)。

yogokun.my.coocan.jp

普濟寺近くの金枝城も調べてくださいました。地元にもたくさんの城跡が残されています。
ついでに、こちらは金枝城についての過去記事です。

www.mizu-kuki.work

 

この報告書を読み返しながら、かつての喜連川葛城の生活や伝承をあらためて学んでみようと思います。

こうした言い伝えが風化しないうちに、私が生まれ育った金枝の地についても調べられたら良いですね。


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最後までお読みくださりありがとうございました。