坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

弘法大師空海のお話⑳ ~ 佐渡の「影ノ神」伝説、修験道の聖地 ~ 「法の水茎」142


八重桜が見頃を迎えています。


フワフワした可愛らしい花びらです。

さて、今月の『高尾山報』「法の水茎」も弘法大師空海をめぐるお話です。佐渡の「影ノ神」という巨大な岩について書いてみました。この一帯は真言宗と深い関わりがある霊域です。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」142(2024年4月号)

 

 

  能登言葉 親しまれつつ 花の旅

          (高浜虚子)

 この句は、俳人高浜虚子(1874~1959)が、昭和24年(1949)4月の奥能登の旅に際して詠ったものです。聞き慣れない能登の言葉に親しみを覚えつつ、地元の方々との温かな交流を育んだ花盛りの旅だったのでしょう。

 先日は、今年元旦の能登半島地震によって打撃を受けた輪島朝市(石川県輪島市)が、3ヶ月ぶりに金沢市内で出張開催されたとの嬉しいニュースがありました。元気な掛け声が響き渡る会場では、「あんがとう」(ありがとう)の能登言葉も、威勢良く飛び交っていたでしょうか。本格的な再開に向かっての門出を心より応援するとともに、いつの日か虚子のように、気持ちの良い能登の風を直に感じることができたならと思います。

 さて先月号では、弘法大師空海(774~835)が発見したと伝わる名勝「見附島」(石川県珠洲市)について書きました。珠洲地方は昔から修行の地でもあったらしく、平安時代の流行歌を集めた『梁塵秘抄』(僧歌)には、「我等が修行に出でし時、珠洲の岬をかい回り、打ち廻り、振り棄てて、単身越路の旅に出でて、足打せしこそあはれなりしか」(私が修行に出たとき、珠洲の岬をめぐりめぐって、しまいには岬を振り捨てて、一人で越路の旅に出て、足を痛めたのは辛かったよ)と歌われています。「珠洲(すず)」は、仏さまを拝むときに用いる「数珠(じゅず)」に音が通じているとの指摘もあります(「評釈」「新全集」など)。多くの僧侶が「山林斗藪(さんりんとそう)」(山野で不自由に堪えながら仏道修行に励むこと)を行ってきた聖地でもあるのでしょう。

 また歌に見える「越路(こしじ)」は、五畿七道(ごきしちどう)の一つである「北陸道」(古称「北陸(くぬが)の道」)を指します。先月号では、佐渡と能登を結ぶ「大師信仰の航路」について述べましたが、若狭(今の福井県西部)から越後(今の新潟県)、佐渡までをつなぐ海沿いの道もまた、物流を支えた道であるとともに、篤い信仰に根ざした「修行の道」であったことが想像されます。

 こうした能登と佐渡をめぐっては、例えば能登の鉄掘り集団の頭(長(おさ))が佐渡に渡って金を採取する説話も残されています(『今昔物語集』『宇治拾遺物語』)。古くから文物の交流も盛んな両国だったのでしょう。

 能登と同様に、佐渡にも多くの弘法大師説話が残されています。お大師さまが唐から投じた「三杵(さんしょ)」(独鈷杵(とっこしょ)・三鈷杵(さんこしょ)・五鈷杵(ごこしょ))のうちの独鈷杵が留まったと伝わる小比叡山蓮華峰寺をはじめ、お大師さま開基(創建)のお寺がいくつも遍在している他、自らが彫刻なされたという洞窟内の摩崖仏も残されています(岩屋山石窟)。

 それらの伝承の中から、今回は佐渡市後尾にある「影ノ神」(影の神)という巨大な岩を取り上げてみたいと思います。佐渡の歴史書『佐渡風土記』(寛延3年〔1750〕頃)には次のように語り継がれています。

 後尾村にある影ノ神(陰ノ神)の開基については詳しいことは分かっていません。海中に島があって、北を背にして南側に洞穴があります。影ノ神をお参りする者は、舟に乗って中に入っていくしか方法がありません。この岩屋は弘法大師空海が秘法(密教の修法)を行った場所と伝えられています。それは修行に励まれた壇上の跡を見ても明らかです。

 島の上にはイブ木(ヒノキ科の「イブキ」か)が生えています。この木を切ると、たちまちに悪風(海上で荒れる暴風)が起こると言われていることから、村人は伐採を固く禁じてきました。

 「影ノ神」の名は、一説では「鹿毛(かげ)の霊(かみ)」とも称されます。その理由は、この近くの村里で怪異(怪しい事柄)があると「鹿毛(かげ)の駒(こま)」(鹿の毛のように茶褐色の馬)が現れて、人間に姿を変えたからとか。今に至るまで不思議な所なのです。

          (『佐渡風土記』)

 干潮時には歩いて渡れるという影ノ神ですが、洞穴の奥には石仏が安置されており、かつて地元の後尾地区では旧暦6月15日を「影ノ神祭」としてお赤飯を炊く風習があったそうです(『日本歴史地名大系』参照)。お大師さまのご誕生をお祝いする行事でもあったのでしょう。

 「影ノ神」という謎めいた名称について、ここでは「鹿毛(かげ)の霊(かみ)」説が挙げられていますが、本来は佐渡最高峰の金北山(きんぽくさん)山頂の影が、元日の朝日に照らされて岩に映るところから名付けられたとか。金北山は、金剛山、檀特山とともに「三山駆け」が行われていた修験道の修行場でもあります。この一帯は真言宗と深い関わりがあることから、お大師さまの信仰が今に息づく霊域と言えるでしょう。

  波の上にうつる夕日の影はあれど

   遠つ小島は色くれにけり

      (『玉葉集』京極為兼)

(波の上に映っている夕方の日の光は残っているけれど、遠くの小島はすっかり薄暗くなっているよ)

 修行に明け暮れていたお大師さまは、金北山に輝く朝日を浴びて、どのような夕日を眺めたのでしょう。もしかすると、能登のずっと先にある唐の都や西域に、思いを馳せていたのかもしれません。



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最後までお読みくださりありがとうございました。