坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

隣接する土地の問題が解決しました。

 

12月8日は、お釈迦さまが悟りを開かれた成道(じょうどう)の日です。
ご恩に感謝して、朝から手を合わせました。


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師走の庭に目を移せば、色づいた紅葉が一本だけ残っていました。
これから落ち葉の後片付けをしながら、秋の名残を楽しみたいと思います。

先日、寒さも和らいだ日曜日には、これまでも何度か行われている境内の竹切りをしていただきました。もう7回目になるでしょうか。

いつもは竹やぶの上から写真を撮っていましたが、今回は下の方からお寺のほうを眺めてみました。遠くに小さく手水舎が見えます。

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角度を変えてみると、本堂の屋根も見えました。
竹を切ってずいぶん見通しが良くなりました。

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もう少し右の方から見上げると、境内墓地のその先に薬師堂もくっきり見えます。

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実は、撮影したこの場所には、以前は別のお寺が存在していました。
国土地理院の地図を見てみると、今でも二つのお寺が掲載されています。


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上の寺院記号は普濟寺です。天文元年(1532)4月8日、金枝城の東側に薬師堂を建立したのが起源です。地図にも山城の地形がそのまま残っています。

下の寺院記号はかつて存在した照願寺というお寺です。普濟寺と土地が接していて、地域の人からは、上のお寺、下のお寺として親しまれてきました。

照願寺は数十年前に廃寺となり、堂舎も全て取り壊されました。


以下は『日本歴史地名大系』の「照願寺」記事です。

照願寺 しようがんじ
[現]喜連川町金枝
普済(ふさい)寺に隣接して本堂がある。毘沙門山朝正院と号し、浄土真宗本願寺派。本尊の阿弥陀如来は常陸国佐竹(さたけ)城(現茨城県常陸太田市)城主右衛門尉義信の念持仏であったと伝える。当寺はもと常陸久慈(くじ)郡鷲子(とりのこ)村(現茨城県那珂郡美和村)にあったのを、享保4年(1719)念信坊がこの地に移して建立したという。毘沙門山の山号は、当寺に毘沙門天像を安置した堂宇があったことに由来するが、その毘沙門堂は明治5年(1872)焼失した。宗祖親鸞の立像が存するが(現在檀家預)、これは親鸞が常陸国稲田(いなだ)(現茨城県笠間市)の草庵に住したときの自作像で、日本三像の一と伝えられる。明治44年、祖師堂も火災に遭ったが、大正元年(1912)庫裏、同10年本堂を再建した(「喜連川町誌」など)。現在は無住。なお鷲子には真宗大谷派の同名寺院が現存する。
『日本歴史地名大系』「照願寺」の項


『日本歴史地名大系』「栃木県の地名」が刊行された昭和63年(1988年)8月には、すでに無住であったことが分かります(私の記憶ではさらに前から無住でした)。

こちらは「普濟寺」記事です。

普済寺 ふさいじ
[現]喜連川町金枝

字金枝(かなえだ)の主要地方道烏山―矢板線沿い東にある。三光山清光院と号し、真言宗智山派、本尊大日如来。もと沢(さわ)村(現矢板市)観音寺末。永禄2年(1559)の創建で、開山は宥哲と伝える。大檀那は土豪金枝氏で、那須氏に属して各地に転戦する金枝郷士の祈願所・菩提所として字内越(うちこし)(現寺地裏山の高台)に堂宇を建立したのに始まるという。正徳4年(1714)中興の祖宥誉が現在地に移して伽藍を営んだ。薬師堂に安置されている薬師如来像はその時期の開眼。台座に宥誉の名が残る。文化7年(1810)火災により本堂全焼、天保7年(1836)尊海に至って再建された(「喜連川町誌」など)。


以下は、喜連川町大字金枝『沿革誌』(昭和54年3月5日)の記事です。照願寺本堂の写真も掲載されています。

 

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照願寺の記載は、現在の多くの地図では無くなっています。
(ゼンリン地図より)

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無住となっていた照願寺の本堂は、平成の初めに取り壊されて、それ以後は地域の皆さんのゲートボール場として使用されてきました(昨年にはゲートボール場としての役目も終えました)。

竹をはじめとする木々は生長していますが、土地はまだ平らに整えられている状態です。ただ、このまま放置すれば、徐々に竹が浸食するでしょう。

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この土地は、廃寺の後も宗教法人照願寺の土地のままとなっていました。
管理者がいないことから、普濟寺の総代・世話人会においても度々議題にあがりましたが、宗教法人同士の問題でもあり、なかなか進展が見られませんでした。

それが今年に入って大きく動き出し、この度、普濟寺に譲渡していただける運びとなりました(手続きも無事に全て完了いたしました)。多くの方々のご協力に、心より感謝申し上げます。

普濟寺には、照願寺本堂解体の際にお預かりした御本尊様がいらっしゃいました。
こちらの阿弥陀如来様です。

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先ほどの辞典に書かれていた、常陸国佐竹城城主右衛門尉義信(1476~1533)の念持仏と伝わる阿弥陀様と思われます。

【念持仏】ねんじ‐ぶつ
日常身につけたり身辺に置いたりして拝む仏像。また、本尊として信仰する仏。持仏。
『デジタル大辞泉』「念持仏」の項


朱色に塗られた唇が印象的です。

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痛みもありますが、厳かなたたずまいです。
こちらの阿弥陀如来様は、土地譲渡にあたってご尽力くださった縁故寺院様のほうにお返しいたしました。それが本来のあるべきお姿でしょう。

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長年にわたり客仏として普濟寺にお出でくださりありがとうございました。今後もどうか多くの方をお救いください。

この土地の問題が話し合われたのは、平成20年(2008)からですので、かれこれ13年の月日が流れました。先代8年、私が引き継いで5年。かねてからの大きな懸案事項が一つ解決いたしました。多くの皆さまのお力に心より御礼と感謝を申し上げます。

 

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最後までお読みくださりありがとうございました。