坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

弘法大師空海のお話⑤ ~ 独自の書風を築き上げた名人 ~ 「法の水茎」126


今朝はずいぶん冷え込みました。
境内には霜柱(しもばしら)。

 


氷点下まで下がったのですね。いよいよ冬の到来です。

今月の「法の水茎」も「弘法大師空海のお話」です。書に秀でていた超人的なお姿を読んでみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」126(2022年12月号)




  十月江南

  天気好(ことむな)し

  憐れむべし冬の景の

  春に似て華(うるは)しきことを

   (白居易『白氏文集』)

(十月の江南は好天に恵まれています。味わいましょう、冬の陽射しが春に似て、明るく華やかなことを)

 旧暦十月は、現在の新暦では十一月から十二月上旬に当たります。五世紀頃の中国南方(長江中流)の年中行事を記した書物に、

  十月は天気和暖にして

  春に似たり、

  故に小春と曰ふ

(十月は穏やかで暖かく、春の天候に似ていることから「小春」という)

   (『荊楚歳時記』)

と記されているように、「小春」は古くから旧暦十月の異名として用いられてきました。この晩秋から初冬にかけての暖かく穏やかな晴天は「小春日」「小春日和」とも呼ばれ、まるで春先のような光が降り注ぎます。

 冒頭の「十月江南」は、『和漢朗詠集』にも採られた有名な漢詩です。「江南」とは、中国の長江(揚子江)下流部の南方地域を指し、台湾の対岸、沖縄の真西に位置する温暖多雨の穀倉地帯で、稲作が盛んな土地柄です。

 弘法大師空海(七七四~八三五)は、延暦二十三年(八〇四)に遣唐使船に乗って唐へと向かいました。途中暴風雨に遭い、漂流の末に漂着したのは福州「赤岸鎮(せきがんちん)」(今の福建省)の海岸でしたが、そこはまさに、この江南地域に当たります。しばらくこの地に滞在し、首都長安へと至ったのは十二月下旬のことでした。お大師さまも、江南の温暖な地域で日を重ね、冬にさしかかって「小春日和」を感じられたでしょうか。これから密教を学べるという期待に心が高鳴りつつも、長安の凍てつく冬の寒さが身に沁みたかもしれません。

 先月号では、恵果阿闍梨(七四六~八〇五)が空海に伝法灌頂(すぐれた行者に秘法を授ける儀式)を行ったところまでを読みました。仏教語に「瀉瓶(しゃびょう)」という言葉がありますが、一つの壺から他の壺へと水を注ぎ移すように、師から愛弟子へと余すところなく真言密教の奥義が伝えられたのです。

 その後は、次のような長安の城内での話が記されています。

 城の三間の壁に筆跡がありました。破損してからというもの、誰も筆を執って修復しようとしませんでした。

 天皇は勅を下して、日本の空海和尚に書かせました。すると、和尚はなんと五カ所に五行を同時に書き始めたのです。それは口に一本をくわえ、両手両足に筆を持った姿でした。天皇はこれを見て心打たれました。

 さらに和尚は墨を擦って残り一間の壁面に注ぐと、自然と満ちて「樹」の字になりました。ますます天皇は感嘆し、空海を「五筆和尚(ごひつかしょう)」と名づけ、菩提子の念珠を施しました。

 またある時、空海が城内の川のほとりにさしかかると、破れた着物をまとった童子が現れました。童子は「日本の五筆和尚か。それなら、この川の上に文字を書いてみよ」と言います。さっそく水の上に清水を讃える詩を書くと、文字は一点も崩れずに流れていきました。童はこれを見て感歎し微笑みました。

 童子は「私も書こう。見ていよ」と話すと、水の上に「龍」の字を書きました。しかし文字の右の小点が欠けていて、水面に浮かんだまま流れません。そこで空海が点を付けると、文字は響きを発して光を放ち、龍王となって空に昇りました。実はこの童は文殊で、破れた着物は瓔珞(ようらく)(珠玉の首飾り)でした。文殊はそのまま姿を消し去りました。

      (『今昔物語集』など)

 お大師さまは、言わずと知れた書の名人です。同時代を生きた嵯峨天皇(さがてんのう)(七八六~八四二)、橘逸勢(たちばなのはやなり)(?~八四二)とともに「三筆(さんぴつ)」と呼ばれ、「弘法筆を択ばず」「弘法にも筆の誤り」などのことわざも残されています。

 ここに語られた逸話も、書に秀でていた超人的な姿を物語ったものです。破損していた城内の筆跡は、「書聖(しょせい)」と崇められる王羲之(おうぎし)(三〇七?~三六五?)筆の屏風とも言われます。お大師さまの書は、王羲之の法に唐代の書家である顔真卿(がんしんけい)(七〇九~七八五)の書法を加えたものとも評されますが、「五筆和尚」と呼ばれた背景には、単に五本の筆を自在に操ったというだけではなく、こうした先人の書法を会得し、さらに独自の書風を築き上げたという称賛も込められているのではないでしょうか。

 また後半の「龍」の字の点(草書の点)を打って真の龍となった話は、その前に空海が清水を讃える詩を書いて川を清めたからこそ「清龍(せいりゅう)」へと変じて昇龍したのでしょう。

 ちなみに、壁面に現れた「樹」の文字と、水面に書いた「龍」の字を合わせると「龍樹」となり、八宗の祖師とされる龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)(一五〇~二五〇頃)が思い起こされるのは深読みでしょうか。お大師さまへと連なる師資相承の流れを感じます。

  身は花とともに

  落つれども、

  心は香とともに

  飛ぶ。

   (空海『性霊集』)

(身体は花とともに消え入ったとしても、心は香りとともに行き渡る)

 お大師さまの書が今も手本であるように、その教えもまた現代に息づいています。清らかな心を空に放てば、冬枯れの木立にも小さな春が感じられるかもしれません。

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最後までお読みくださりありがとうございました。