坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「道」のお話⑪~ 月の道、心の月を清らかに ~ 「法の水茎」111


今日一番、庭で目立っていたお花です。

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夕方にはしぼんでしまう一日花。
素敵な姿を見せてくれてありがとうございました。

今月の『高尾山報』「法の水茎」も「道」がテーマです。月の運行する道(白道)や、心の中に現れる月を静かに観じる月輪観(がちりんかん)などについて書いてみました。お読みいただけますと幸いです。


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「法の水茎」111(2021年9月号)




リーンリーン、チンチロリン

 9月に入って、朝晩にいくぶんかの涼しさが感じられるようになってきました。耳を澄ませば、松虫や鈴虫などの声も元気に聞こえてきます。

  秋の夜の月に心のあくがれて

   雲居にものを思ふ頃かな

        (『詞花集』花山院)
(秋の夜の月へと心が浮かれ出て、はるか雲の上で物思いをすることよ)

 秋の草花や虫の音に包まれながら夜空を見上げれば、まどかな月が輝いているでしょうか。そのやわらかな光に誘われるように、いつしか心が身体から離れて、ふわふわ空へと舞い昇っていきます。

 間もなく「中秋の名月」(十五夜)を迎えます。今年の旧暦8月15日は、9月21日。ちょうど秋のお彼岸の時期(9月20日から26日)に当たります。一年で最も麗しいとされる満月を愛でながら、ご先祖様を偲んでみてはいかがでしょうか。

 ちなみに俳諧の世界では、前日の14日の夜の月を「待宵(まつよい)」と呼ぶそうです。「十五夜を待つ」という意味から名づけられたとか。満月(十五夜)翌日の「十六夜(いざよい)の月」とともに、月の姿の微妙な変化を感じ取るのも趣深いかもしれません。

 遙か上空に目を転じれば、お彼岸の期間には、太陽の通り道である黄道(こうどう)と天の赤道(せきどう)とが一点に交わるそうです。太陽が赤道の北から南へ横切れば秋分、南から北へと抜ければ春分となり、この日を境に昼と夜の長さが長くなったり短くなったり、どちらかへと傾いていきます。

 「黄道」「赤道」の他にも「白道(はくどう)」と呼ばれる道もあります。白道は、「月が天球上を動く道」。地上から天空を見渡せば、太陽や月、星々の道が、毎日ほんの少しずつ移動しています。こうした大いなる動きによって、私たちの日々の生活は成り立っているのでしょう。「提灯(ちょうちん)を借りた恩は知れど、天道の恩は忘れる」という言い回しもありますが、収穫の秋を前にして、普段は忘れがちになっているお天道様、お月様の深い恵みを、あらためて噛みしめたいと思います。

 仏教では、月のように澄みきった心を「心月(しんげつ)」(訓読みして「心の月」)と称します。それは、迷いのない悟りの境地を表します。『心地観経(しんじかんぎょう)』というお経の中に「月即是心、心即是月」(月は即ちこれ心、心は即ちこれ月)と見えるように、人間の心は、本来は明月のように清らかなものと説かれています。

 ところが日常を振り返ってみると、つい過度に愚痴を吐いたり怒ったり、次から次へと欲望もわき上がってきて尽きることがありません。心を苦しめ悩ませる「煩悩」と呼ばれる雑念を、どのように減らしていったら良いのでしょう。

 例えば、密教には「月輪観(がちりんかん)」という観法(瞑想法)があります。「月輪」とは「輪のように丸い月」を表し、「満月のように清浄な心」を意味します。月輪観の修行では、心の中に現れる月輪(月)を静かに観(み)つめ、心の月にかかった煩悩の雲や霧を、少しずつ取り去っていきます。

 平安時代を生きた成尋(じょうじん)阿闍梨(あじゃり)(1011~1081)という僧侶の母親は、80歳を過ぎてから『成尋阿闍梨母集』という作品を書き綴りました。その中には、遠く異国の地へと修行の旅に出てしまった息子成尋を思って、一人月を眺める場面が描かれています。

 月がとても明るいのを見ていると、夜が更けて月が西に入るので、月輪観ということが思い出されて、しみじみとした気持ちになって歌を詠みました。

  山の端に出で入る月もめぐりては

   心のうちにすむとこそ聞け

(山の端に出入りする月ではあるけれど、この世では人の心の中にあって、静かに澄んでいると聞くよ)

  出で入ると人目ばかりに見ゆれども

   こしの山にはのどかなりとか

(月は出たり入ったりしているように、人の目には見えるけれど、お釈迦様が『法華経』を説いたという霊鷲山(りょうじゅせん)には、いつも静かに照り輝いているというよ)

 私はいつも、空に月を見たいと思っています。

     (『成尋阿闍梨母集』)

 成尋母は、移りゆく実際の月の姿を眺めながら、心の中にあるという澄み切った月を見つめています。さらには、西に沈む月に心を乗せて、遠く天竺(インド)に光り輝く満月を、心の眼で観じていたのでしょう。成尋母は、大空に照る月に仏様を感じ、その光によって悲しみが癒やされていったのではないかと想像されます。

  光あるものは、

  光あるものを

  伴(とも)とす。

      (『沙石集』)

(輝きある者は、輝きある者を友とする)

 心の月を磨いたならば、夜空の月とも友達になれるのでしょうか。一つ一つ迷いの雲を吹き払って、年に一度の十五夜様にお会いできればと思います。


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最後までお読みくださりありがとうございました。