坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

弘法大師空海のお話③ ~ 海の道を進むこと三千里、恵果阿闍梨との出会い ~ 「法の水茎」124


ここ数日は、最低気温が一桁台に下がってきました。
木々も少しずつ色づいてきて、栃木の山沿いでは紅葉の見頃を迎えているようです。

お寺の境内では、今年も十月桜が咲いています。


植物は季節を違えませんね。
目立ちませんが、清楚な花びらに心癒やされています。

さて、今月の「法の水茎」も「弘法大師空海のお話」です。若き日のお大師さまが唐(中国)に渡り、青竜寺の恵果阿闍梨にお会いするまでを書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」124(2022年10月号)

 

 

  すみのぼる心や空を払ふらん

   雲の塵ゐぬ秋の夜の月

    (『金葉集』源俊頼朝臣)

(澄み渡って昇っていく心が、空を清めているのだろうか。雲一つない秋の夜の月よ)

 9月の中秋の名月はご覧になりましたでしょうか。明るい夜空を見上げると、大きな満月が閑(しず)かに照り輝いていました。次の日は少し曇っていましたが、少し欠けたように見える十六夜(いざよい)の月が、雲間でやわらかな光を纏っていたのにも心惹かれるものがありました。

 早いものであれから一ヶ月。今月は「後の月」とも呼ばれる十三夜がめぐってきます(今年は10月8日)。十五夜に次いで名高い十三夜は、月の左側がほんの少し欠けています。徐々に深まりゆく秋の装いを感じつつ眺めれば、きっと心の中の塵も払われて、清らかな心持ちになっているでしょう。

 真言宗を開かれた弘法大師空海(774~835)もまた、自然の中に身を置いて、さまざまな苦行に励まれました。土佐国(今の高知県)の室生門崎(室戸岬)では、修行中に明星(金星)が口に飛び込んできたとの話が伝わっていますが、その折の心境を、次のような和歌に残されています。

  法性の室戸といへど我がすめば

   有為の浪風よせぬ日ぞなき

     (『新勅撰集』弘法大師)

(安らかな悟りを思い浮かべる室戸と聞いていたけれど、私が住んでみると、つらい無常の波風が立たない日はないよ)

 この歌は、勅撰集にも入集した著名な空海歌です。はじめの「法性(ほっしょう)」とは「悟りの世界」を表し、それは果てしなく広がる「法性の空」や、限りなく深い「法性の海」にも喩えられます。「空」と「海」の双方を合わせ持った「空海」というお名前には、真実のありのままの姿である「法性」の教えが込められているのかもしれません。

 第二句「室戸」には、地名の「室戸岬」とともに、「無漏土(むろど)」という「煩悩などの悩みごとのない地」が掛けられています。「法性無漏(ほっしょうむろ)」(真理に煩悩のけがれはない)という仏教語があるように、室戸岬は清らかな土地として空海の目に映っていたのでしょう。

 ただ下の句では、いざその場に立ってみると、心がざわつくような波風が毎日のように押し寄せてくると詠っています。普通であれば「室戸」(無漏土)の名の通り、心が穏やかに静まっていくように思うのですが何故なのでしょうか。

 やや難しくなるかもしれませんが、例えば鎌倉時代の真言僧侶、頼瑜僧正(らいゆそうじょう)(1226~1304)は、この空海の歌に応じる形で、次のような歌を唱和しています。

  性海の縁起は今ぞ知られぬる

   無漏土のうらの有為の浪風

     (『真俗雑記』頼瑜僧正)

(悟りの心を弘法大師の歌によって今知ったよ。真実の裏にある無常の波風ということを)

 なかなか訳すのが難解な歌です。はじめの「性海(しょうかい)」とは、先ほどの「法性の海」のように真実の世界を海に喩えた「真理そのもの」を表しています。仏教語「性海縁起(しょうかいえんぎ)」は、「仏の悟りの境地を言葉に出して説く」という意味になりますが、頼瑜は空海の歌によって、悟りとはどのようなものかを知ることができたと詠っているのでしょう。

 では、具体的に何を知ったのでしょうか。それは下の句にある「無漏土のうらの有為の浪風」にあると思われます。空海歌と同様に「無漏土」には「室戸岬」、「うら」には室戸岬の「浦」と表裏の「裏」が掛けられています。さらには心を表す「うら(心)」が響かされているかもしれません。

 頼瑜は、空海の歌から「悟りの内には煩悩がある」という真理を感じ取ったのではないでしょうか。室戸岬に「住み」、心を「澄ませる」ことによって、はじめて無常(有為)の波風が身にしみた歌と解釈したようです。苦行の末に知り得た空海の思いは、和歌によっても後世の弟子たちの心を奮い立たせたようです。

 さて先月号では、『今昔物語集』の空海伝から、苦行によって多くの奇瑞(きずい)(不思議な現象)をあらわし、密教の世界に分け入って、名前を「教海」から「如空」、そして「空海」へと改めたところまで読み進めました。その後はどのような道を辿(たど)られたのでしょうか。

 空海は、仏様の御前で真言密教への真っ直ぐな求道心(ぐどうしん)を打ち明けました。するとその後、夢の中に人が現れ、「ここに『大毘盧遮那経(だいびるしゃなきょう)』という経がある。これこそお前が必要としている経典である」と告げられました。

 目覚めて嬉しく思い、夢で見た経典を探し歩くと、大和国(今の奈良県)高市郡(たけちのこおり)にある久米寺(くめてら)の東塔の下で、この経典を見つけました。喜びさっそく開いてみましたが、難しくてなかなか理解できません。すると「この国には知っている者はいない。私は唐(中国)に渡って、この教えを学ぼう」と思い立ち、延暦23年(804)の5月12日、時に空海31歳の年に唐へと渡ったのでした。

 海の道を進むこと三千里(約12000キロ弱)。ようやく蘇州というところに到着しました。その年の8月には福州に行き、12月下旬には首都長安に至りました。都では、この一行を一目見ようとする人々が、道に溢れかえっていました。

 住まいの寺院に移り住み、しばらくしてついに青竜寺(せいりゅうじ)東塔院の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)にお会いすることができました。

      (『今昔物語集』など)

 ここに見える『大毘盧遮那経』とは、密教の根本経典『大日経(だいにちきょう)』のことです。遥か海を渡っての遠い道のりは、密教の淵源を遡る求法の旅でもあったでしょう。密教を究めたとして、東アジア各地から弟子が集っていた恵果阿闍梨(けいかあじゃり)(746~805)に巡り会えたのも、空海の一途な思いによる、出会うべくして出会えた法縁(ほうえん)だったように思われます。

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最後までお読みくださりありがとうございました。