坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「道」のお話④~ 「薪の道」は「清貧の道」、清らかで心豊かな生活 ~ 「法の水茎」104

梅の花に春雨が降り注いでいます。

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2月15日(今年の旧暦では3月27日)は、お釈迦様が入滅なされた日です。

【入滅】にゅうめつ
[名](スル)滅度すなわち涅槃にはいること。釈迦(しゃか)の死、高僧などの死にいう。
『デジタル大辞泉』「入滅」の項

 

お寺にも、入滅の場面を描いた涅槃図があります。

 

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鮮やかですね。
一昨年になりますが、本堂の奥の方に眠っていたのを見つけました。大きな涅槃図です。

【涅槃図】ねはんず
釈迦が沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で入滅する情景を描いた図。一般に、釈迦が頭を北、顔を西、右脇を下にして臥(ふ)し、周囲に諸菩薩(ぼさつ)や仏弟子・鬼畜類などが集まって悲嘆にくれるさまを描いたもの。涅槃絵。
『デジタル大辞泉』「涅槃図」の項

 

見つけたときの過去記事です。 

www.mizu-kuki.work

 
今日は堂内に掲げました。雨音を聞きながら、その恩徳を慕いたいと思います。

さて、今月の私の文章も「道」がテーマです。
お釈迦様の修行の道(薪の道)について書いてみました。お読みいただけますと幸いです。

※      ※

「法の水茎」104(2021年2月号)

 

 年末年始にかけて、日本列島に強い寒気が流れ込み、とりわけ日本海側を中心として荒れ模様の天候が続きました。短時間で一気に増していく積雪に、不安を覚えた方も多くいらっしゃったのではないでしょうか。古くから正月の大雪は豊年の前触れとも言われますが、人為を超えた自然の力を痛感しました。雪深い地に、いち早く春が訪れますよう念じます。

 平安時代の終わり頃に、降り積もった雪で仏様を作った僧侶がいました。大雪が降ったのでしょうか、大きさは一丈六尺(約4・85メートル)もあったそうです。その雪仏の前で僧侶は祈りを捧げました。
 それを聞いたある女性は、このような和歌を詠んで僧侶に贈りました。

  いにしへの鶴の林のみ雪かと
   思ひ解くこそ哀なりけれ
(この雪の仏像が、遙か昔のお釈迦様のお姿かと思い合わされて哀れなことです)

 歌の中の「鶴の林」は「鶴林(かくりん)」を訓読したものです。もともと「鶴林」とは、お釈迦様が入滅(亡くなられること)なされた場所を指し、入滅の時に、その悲しみから娑羅双樹(さらそうじゅ)が白鶴のように白く変じて枯れたという故事に由来しています。お釈迦様の入滅は、旧暦2月15日に当たることから「如月(きさらぎ)の仏の縁」とも言われ、また鶴林そのものが「お釈迦様の死」を意味するようにもなりました。「み雪」は、その名の通り美しい雪でもあり、雪仏でもあり、お釈迦様そのもののお姿でもあるのでしょう。そう気づいたとき、女性の心の中に懐かしい「ものの哀れ」の深い感動が湧き上がってきたのかもしれません。
 しばらくしてから、僧侶は女性に歌を返しました。

  日を添へて雪の仏は消えぬらん
   それも薪の尽きぬとや見し

      (『康資王母集』)
(日が経つにつれて、雪の仏は消え失せるでしょう。それもお釈迦様の入滅と見えることです)

 「薪(たきぎ)の尽きぬ」(薪尽く)は、お釈迦様入滅の際に、栴檀や沈香などの香木を薪として火葬した話に基づいています。薪が燃えて無くなる様子から、やがて鶴林と同じように「お釈迦様の死」を表すようになりました。僧侶は、雪仏から「鶴林」を連想した女性の歌を受けて、雪仏が消えゆく姿から「薪尽く」という言葉を導き出しました。二人は雪仏にお釈迦様を重ね、その恩徳を恋しく慕い合ったのです。

 「薪」と言えば、弘法大師空海(774~835)の『性霊集(しょうりょうしゅう)』に「爰(ここ)に一(ひとり)の薪(たきぎ)を伝ふる者有り」(ここに一人の教えを伝える者がいた)と記されているように、「薪」には「仏の教え」という意味も込められています。「谷の水、峰の薪の道」という言い回しもありますが、これは行基菩薩(668~749)の歌に、

  法華経を我が得し事はたき木こり
   菜摘み水汲み仕へてぞ得し

      (『拾遺集』行基)
(『法華経』を学び得たのは、薪を集めたり菜を摘み取ったり水を汲んだりして仕えたからこそ得られたのだ)

と詠われているように、『法華経』「提婆達多品」に見える「採菓汲水(さいかきっすい)」の教えに拠るものです。お釈迦様は過去世から、阿私仙人(あしせんにん)のもとで木の実を採り花を摘み、木を樵って水を汲むという仏道修行に励んできました。それは、難行苦行の「薪の道」とも呼ばれています。

 では、お釈迦様が歩まれた「薪の道」(仏道修行)とは、いったいどのようなものだったのでしょう。例えば、次のような話を見ることができます。

 財産は我が身のためであり、我が身は心が主である。財産が多くても、身を失えばどうにもならない。身が楽しくても、心が苦しかったならば何にもならない。ただ心を安らかにし、身が自由であれば、これこそが今生の喜びとなるのだ。身心ともに安らかなのを縁として、仏道修行を心掛けなければならない。貧乏を安らぎとして罪も少なく、心も安らかに身も落ち着いて仏道修行するのが、人の身として生まれた甲斐となるのだろう。

 寒山子(かんざんし)が言うには「千金の宝に満たされているより、僧侶として貧しくしているほうがよい」と。また古人が言うには「仏道を学ぼうとすれば貧を学ぶべきである」と。

 世俗の賢人も首陽山(しゅようざん)に籠もって蕨だけを食べて飢え死にし、綿山(めんざん)で薪の火に焼かれて死んだ例もある。すぐれた仏道の道に入ろうとする人は、世俗の塵(煩悩(ぼんのう))に心を染めて、無為寂滅(むいじゃくめつ)の道から遠ざかってはならない。
          (『沙石集』)
 末尾の「無為寂滅」とは、仏道修行者が理想とする「涅槃(ねはん)」(悟り)の境地です。心身を悩ませる煩悩(塵)を払って、自然とともに生活する「薪の道」は、清らかで心豊かな「清貧(せいひん)の道」に通じているのでしょう。

  冬ごもり薪つむとも山里は
   雪よりやがて花ぞ咲くべき
      (藤原俊成『長秋詠藻』)
(冬籠もりで薪を積んだとしても、山里は雪解けとともに花が咲くでしょう)

 薪をとってきた山人が、積んだ薪に花を添えることを「薪に花を折り添う」と言います。気高い優しさを心に秘めれば、雪のように冷え切っていた身体にも、お釈迦様のあたたかな光が差し込んでくるでしょう。



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最後までお読みくださりありがとうございました。