坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

スポンサーサイト

「無常」のお話①~雪山童子の願い、この文句を見て~「法の水茎」72

スポンサーサイト

帰宅すると、玄関先のバラが迎えてくれました。

f:id:mizu-kuki:20190606215046j:plain

薔薇

野バラでしょうか。
飾り気のない、素朴な姿にも心癒やされます。


今回の文章は、「無常」をテーマとして、『平家物語』などに語られる「諸行無常」について書いたものです。

    ※      ※

「法の水茎」72(2018年6月記)





  郭公(ほととぎす) 鳴くや五月(さつき)の あやめ草
   あやめも知らぬ 恋もするかな
           (『古今和歌集』不知)
(ほととぎすが鳴いている。5月に飾られる菖蒲ではないけれど、私は筋道を見失うぐらいの恋をしているよ)

 旧暦5月を迎えて、紫陽花(あじさい)や睡蓮(すいれん)、梔子(くちなし)や花菖蒲(はなしょうぶ)などの花々が、この時期の五月雨(さみだれ)を浴びながら色鮮かに輝いています。

 冒頭の和歌では、「あやめ」の語が繰り返されています。植物の「菖蒲(あやめ)」から、同音の「文目(あやめ)」という言葉を導き、「文目(あやめ)も知らぬ」(理性を見失う)ほどの恋心を告白しています。何かを訴えかけるように鳴くホトトギスの姿に、自らの「恋路(こいじ)の闇(やみ)」を重ねているのでしょうか。夕暮れに響く雨音を、恋人が家を訪ねて来てくれて「トントン」と戸を叩く音に聞き紛う日もあったかもしれません。

 季節は初夏を感じる時節から、いよいよ「夏至(げし)」(1年で昼の時間が最も長くなる日)が近づいてきました。ちょうど梅雨の最中でもあることから、あまり太陽のお顔を拝むことはできませんが、梅雨明け宣言とともに、一気に夏の陽差しが降り注ぎます。

 このように、今日という日は、一見昨日と変わらないように見えて、ゆっくりと、そして確実に移ろっています。思えば桜を愛でた春は、どこに行ってしまったのでしょう。遙か彼方に遠ざかってしまったように感じられます。

 仏教では、この世の全てのものが移り変わることを「無常(むじょう)」(諸行無常(しょぎょうむじょう))と言います。この言葉でまず思い出されるのは、軍記物語の代表作『平家物語』の序章ではないでしょうか。

  祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、
  諸行無常(しょぎょうむじょう)の響あり。
(祇園精舎の鐘の音には、「諸行無常」を説く響きがある)

 学校の授業などで暗記された方も多いでしょう。七五調のリズムに乗せた和漢混淆文(わかんこんこうぶん)が心地良く響きます。

 祇園精舎とは、お釈迦様が説法をなされたお寺です。そのお寺から「諸行無常」の教えが鳴り響いてくるというのですが、いったいそれはどのような教えなのでしょう。

 『平家物語』に先行する平安時代の歴史物語『栄花物語』には、もう少し詳しく記されています。

  かの天竺(てんじく)の
  祇園精舎の鐘の音、
  諸行無常、是生滅法(ぜしょうめつほう)、
  生滅滅已(しょうめつめつい)、寂滅為楽(じゃくめついらく)
  と聞こゆなれば、
       (『栄花物語』)
(あのインドの祇園精舎の鐘の音は、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」と響き聞こえるというので)


 ここでは、「諸行無常」(この世の全ては移り変わる)に続いて、「是生滅法」(全ては生じては滅していくもの)、「生滅滅已」(移り変わりの世から抜け出せば)、「寂滅為楽」(はじめて本当の安らぎが得られる)という文言が付け加わっています。これは、お釈迦様の入滅(にゅうめつ)(お釈迦様の死)を説く『涅槃経(ねはんぎょう)』というお経に見られる「四句偈(しくげ)」と呼ばれるものです。実は『平家物語』の冒頭に響く鐘の音には、「諸行無常」だけではなく、この四句の教えが説き示されていたのです。

 『涅槃経』「四句偈」をめぐる話は、日本の説話集にも語り継がれています。

 昔、雪山(せっせん)(ヒマラヤ山脈)に一人の苦行者(くぎょうしゃ)がいました。名を雪山童子(せっせんどうじ)と言いました。まだ仏様がいなかったので、お経を読むことができませんでした。

 ある時、どこからともなく、「諸行無常、是生滅法」という声が聞こえました。雪山童子は喜び辺りを見回すと、恐ろしい姿をした羅刹(らせつ)(悪鬼)がいます。

 童子は尋ねました。「あなたはどこで、この偈文(げもん)を聞いたのですか。残りを説いてくれたなら、私は、一生、あなたの弟子になります。どうか教えてください」と。

 すると羅刹は、「我は飢え疲れている。もしお前の肉体を食べさせてくれるなら教えてやろう」と答えます。

 童子は、羅刹の言葉を聞くと、身に付けていた鹿皮の衣を脱いで、羅刹のために座を敷きました。心を尽くして敬うと、羅刹は、「生滅滅已、寂滅為楽」と説いたのでした。

 童子は深く心に刻み、後の世の人のために、辺りの石や壁、道の木々などに、この偈文を書き留めると、高い木に登って、約束通り羅刹に身を投げました。

 ところが、童子の身体が地に着く前に、羅刹は帝釈天(たいしゃくてん)の姿に還って、空中で童子を受け止めると、童子に向かって「あなた様こそ真の菩薩(ぼさつ)(修行者)です。どうか未来にお救いください」と伏し拝むのでした。

 半偈(はんげ)のために身を投げた雪山童子とは、今のお釈迦様のことなのです。
             (『三宝絵』)

 雪山童子は、命をかけて後半の二句を得ました。自分だけではなく、後の世の人のために書き付け、「後に来る人は必ずこの文句を見よ」と、辞世を覚悟して発した言葉に胸打たれます。今こうして「無常」という言葉を知っているのも、お釈迦様の「捨て身の行」があったからに他なりません。

 梅雨空からは冷たい雨が落ちています。雨に潤う草木の成長を感じれば、いつしか無常を感じる心(無常心)が身に付くでしょうか。曇天の大空を仰ぎ見ながら、お釈迦様の勇気ある一途な行動に恋い焦がれます。

    ※      ※

最後までお読みくださりありがとうございました。





スポンサーサイト