坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「時間」のお話④~鹿の鳴き声、短い秋を謳歌して~「法の水茎」88

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台風が過ぎ去って、強風が残っています。

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コスモス

コスモス(秋桜)も大きく風に揺れています。
短日植物の代表の一つとされるコスモス。
少しずつ日が短くなっていることを教えてくれます。

【短日植物】

日照時間が短くなると花をつける植物。キク・コスモス・イネなどで、夏から秋にかけて開花する植物に多い。


【長日植物】

日照時間が長くなると花をつける植物。暗期が一定時間以下になると花芽を形成する。ホウレンソウ・アブラナ・小麦など、春から夏にかけて花の咲く植物に多い。

『デジタル大辞泉』「短日植物」「長日植物」の項


さて、今回の『高尾山報』の文章は、引き続き「時間」をテーマに、短い秋を感じながら、「真の幸福とは何か」について書いたものです。

   ※      ※

「法の水茎」88(2019年10月記)





 9月に襲来した台風15号は千葉県を中心に大きな爪痕を残しました。停電や断水など甚大な被害に遭われました皆さまのご心痛、いかばかりかとお察し申し上げ、一刻も早く元通りの日常が戻りますことを衷心よりお祈り申し上げます。

 秋のお彼岸を過ぎてから、少しずつ日が短くなってきました。「秋の日は釣瓶(つるべ)落とし」ということわざや、「短い秋の日は瞬く間に暮れる」という歌詞があるように、瞬きを何回か繰り返しているうちに、太陽は山の端に沈みゆきます。

 陽が落ちて、涼やかな秋風とともに虫の音が聞こえてくれば、物悲しさを覚える夜があるかもしれません。澄んだ空気に呼応するように、あれこれ物思いに耽ってしまうのが「秋の夜長」の侘しさなのでしょう。

 「~の秋」という熟語をよく耳にします。読書・芸術・実り・食欲・行楽・スポーツなどなど……皆さんはどのような秋を思い浮かべますか。秋は瞬く間に過ぎゆきますが、過ごしやすい気候で、集中力が増す折節でもあります。いろいろなことに取り組める「チャレンジの秋」にしたいものです。

  秋刀魚食ふ 月夜の柚子を もいできて
              (加藤秋邨)

 サンマ(秋刀魚)は、その名の通り秋を代表する魚です。昔から庶民の味覚ですが、近ごろは不漁が続いているようです。いずれは高級魚として食卓に上る日が来てしまうのでしょうか。

 この「秋刀魚食ふ」の句では、月夜の晩に柚子をもぎ取っています。サンマに柚子を搾って食すのかもしれません。月と柚子が輝く宵に、サンマを焼く香ばしい匂いと煙が漂ってくるようです。

 ところで、漢字で「魚へんに秋」と書く魚をご存じでしょうか。答えは、カジカ(鰍)です。清らかな河川に住む魚で、体表には鱗がなく、蛙のように滑らかな皮膚を持っています。鹿肉のように美味しい魚という意味から、カジカ(鰍)は「河鹿(かじか)」とも表記されます。

 ここで思い起こされるのは、美声で知られるカジカガエルという蛙でしょう。鳴き声は笛を吹くように聞こえ、それは鹿の美しい声に似ることから河鹿蛙(かじかがえる)と呼ばれました。実際には魚のカジカ(鰍)は鳴きませんが、古の人々は、カジカガエルの声に鹿の鳴き声を重ね合わせ、心惹かれていたのです。

 では、鹿はどのように鳴いたのでしょう。

  奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の
   声きく時ぞ 秋は悲しき
        (『古今集』猿丸大夫)
(人里離れた奥山で、紅葉した落葉を踏み分けながら歩いていると、どこからか鹿の声が聞こえてくる。そんな時こそ、秋の悲しさがいっそう身に沁みてくる)

 鹿もまた秋を代表する動物です。秋になると、雄鹿(おじか)は妻を求めて悲しげに鳴くと言われました。鹿の鳴き声には、愛する者を想い、恋い慕う感情が込められていると思われていたのです。

 鹿をめぐっては、次のように伝えられています。

 鹿を捕らえて、檻(おり)に閉じ込めて、その居所の檻を立派にして、食べ物を素晴らしくして養ったとしても、その身は必ず痩(や)せていきます。なぜなら、鹿は山のことだけを考えているからです。

 もし、ただ安らかに山で寝起きしている時には、草と水ばかりを口にしていても、身も肥(こ)えていきます。これは、心安ければ肥え、心が苦しければ痩せるということです。

 ですから、安心して、思い煩う苦しみがないほど楽しいのです。この現世においても、心安らかであるのみならず、罪も妄念(もうねん)も無くして仏道修行に励んだならば、来世はきっと安心した頼もしいものとなります。

 白楽天(はくらくてん)は「財産が多く地位が高くても、苦しみがある。苦は心の憂いにある。貧しく地位が低くても、楽しみがある。楽は身の自由にある」と言われました。本当にその通りです。だから全てを忘れ、全く悩みごとの無い身となるほど楽しいことはないのです。
            (『沙石集』)

 楽しみとは何か、苦しみとは何かを考えさせられる話です。人間は飽き足ることなく、名誉や財産を追い求めてしまうものです。地位や名声を得ていても、有り余るほどのお金を持っていても、それに満足せずに憂いているとするならば、これは真の幸福と言えるのでしょうか。もしかすると、執着(しゅうちゃく)という思い込みを捨ててこそ、何にもとらわれない自由な境地が手に入るのかもしれません。

  智者は秋の鹿
  鳴いて山に入る、
  愚人は夏の虫
  飛んで火に焼く。
       (『源平盛衰記』)
(賢人は、秋の鹿のように、山の中に隠れて俗世間から遁れようとする。愚人は、夏の虫が自ら火に飛び込むように、俗世に溺(おぼ)れて自身を窮地に陥れようとする)

 「飛んで火に入る夏の虫」に対する「鳴いて山入る秋の鹿」でしょうか。山奥で悲しげに鳴いている鹿は、相手を想いながらも、実は短い秋を謳歌(おうか)しているのかもしれません。俗世を離れた錦秋のお山に分け入りながら、「真の幸福」について考えてみたいと思います。

     ※      ※

最後までお読みくださりありがとうございました。

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