坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

先代の命日、父の句集『遅日』の「あとがき」です。

今日は先代(父)の命日です。
境内の花々をいくつか撮ってみました。

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あの日もこんなに花々に囲まれていたのかと、数年前の命日に思いを馳せます。


多くの草花とともに、お墓にお参りして、灯明を灯し、お線香を上げました。

思い起こせば、四十九日に合わせて、父の句集『遅日』を作りました。

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高橋秀道『遅日』


本日の命日に合わせ、私が書いた「あとがき」を載せさせていただきます。


当時は何も分からずに動揺するのみでしたが、できるだけ悲しみを抑えて文章を書いた記憶があります。


あとがき

 


 三光山普濟寺第32世髙橋秀道和尚(俳号・佳雪)は、平成28年8月19日に78歳の生涯を閉じました。

 父であり師である秀道は、昭和33年8月8日、20歳の誕生日の日に髙尾山に登嶺しました。そこで初めて、星野立子先生の御指導のもと、俳句という奥深い世界を知ったようです。句集「遅日」の名は、 

  静かなる 遅日の句碑に 人ありて

という句から、父自らが選びました。この句は、句会の際に、立子先生をはじめ多くの方々から評価を頂戴したものだったとか。私にその時の手帳を見せながら、幾度も嬉しそうに語っていた姿を、今でも思い出します。

 昭和42年の秋に髙尾山を下り、ここ普濟寺の住職を拝命してからも、生涯にわたって句作に励んできました。ここに収められた362句はほぼ年代順に並べられており、私の知らない高尾山での修行生活から生まれた句も多く採られています。

 晩年の父は、これまでの句をいつか1冊にまとめたいと願っていたようです。一句一句を半紙に清書しながら、若き日の髙尾山での思い出も書き留めていました。亡くなる8月には、自らの命を感じ取ったのでしょうか、「もう時間がないから」と語りながら、病室で何度も半紙に目を通していました。

 この度、生前の思いから、父の筆跡そのままにまとめさせていただきました。闘病中の文字は往年とは異なりますが、父の温もりがあふれています。この句集が、父が言うように「超低空飛行」の句ばかりなのかは、句心のない私には分かりません。もっと早く、父に手渡すことができたのではないかと自責の念に駆られますが、まずは念願が叶ったことをたいへん嬉しく思っているところです。

 大本山髙尾山薬王院第32世貫首大山隆玄猊下におかれましては、御染筆ならびに御言葉を頂戴いたしましたこと、誠に忝く心より御礼申し上げます。父ともども、御貫首様のお導きに深く感謝いたしております。

 渋谷秀芳僧正には、句集を編むにあたり、種々御助言を賜りました。深謝申し上げます。また、ヒラツカ印刷社様には、製本に際して御配慮いただきました。ありがとうございました。

 父の遺品を整理している中で、小さなメモ帳を見つけました。そこには、喜寿を迎えた感慨とともに、以下の3句が小さく書き込まれていました。

  病む我に 鶯の声 谷渡る


  生きる為 烏親子で 声高し


  高台へ 移りて鶯 去りにけり

 病と闘う自分と、精一杯に生きる鳥の鳴く音とを重ね合わせたのでしょうか。普濟寺の境内に響きわたる命の鼓動が聞こえるようです。

  病床に蜂虫つばめ近寄りて 我れの生命もこれが最期か


  猛暑とか新幹線をながめつゝ 青田さゞ波今日も暮れ行く

 これは亡くなる直前に詠んだ歌です。私が「短歌になってるよ」と話しかけると、少し間を置いてから「本当だ」と発したときの、はにかんだ表情が忘れられません。

 句集『遅日』を霊前に供えながら、その名の通り、末永く父の光が射し込むようにと、静かに冥福を祈ります。

           合掌

平成28年9月のお彼岸に
  三光山清光院普濟寺 副住職 髙橋 秀城



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最後までお読みくださりありがとうございました。