坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「五大」のお話~悟りの世界、永遠に変らないもの~「法の水茎」13

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春の天気は変わりやすいですね。 
昼間は暖かかったかと思うと、夕方からは冷え込んで。。。まさに「三寒四温」の陽気です。

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椿

まだまだ冬の名残も残っています。
これからいよいよ、桜の季節へと向かいます。

今日の文章は、これまで書いてきた「地・水・火・風・空」を総括して、「五大」をテーマに書いたものです。


    ※      ※

「法の水茎」13(2013年7月記)


  ゆく河の流れは絶えずして、
  しかも、もとの水にあらず。
  淀みに浮ぶうたかたは、
  かつ消え、かつ結びて、
  久しくとゞまりたる例なし。
  世中にある人と栖と、
  またかくのごとし。

 有名な『方丈記』の冒頭です。鴨長明(1155~1216、出家して法名・蓮胤)は、川の流れを見つめながら、そこに「変らないもの」(不変)と「変るもの」(変化)を感じ取っていました。いつものように川はそこに在るけれど、よくよく観察してみると昨日見た水とは異なっている。水の泡(泡沫)が消えたり生まれたりするように、この世に存在する人間も住まい(栖)も、片時も変化の歩みを止めることが無いというのです。『方丈記』が書かれてから800年が経った今でも、この営みは変ることなく続いていると言えるでしょう。

 私が「高尾山報」に書かせていただくようになってから、早くも1年の月日が過ぎ去りました。季節が巡り行く中で、自分自身は何か変わることができたのだろうかと自問自答する日々です。

 これまで、仏の教えに少しでも近づきたいという思いから、さまざまな文学作品を取り上げ、その道しるべを探して参りました。滝行などによって煩悩を洗い流す「水」の話、御詠歌やお経をお唱えして「風」を起す話、心に仏の光を灯して煩悩を焼き尽くす「火」にまつわる話、自然の息吹がそのまま仏の恵みであるという「地」に関わる話、虚空のような心を持つという「空」をめぐる話など。

 以前にも触れましたが、仏教ではこれら「地・水・火・風」の4つを「四大」(四大種)と呼び、この世のあらゆるもの形づくる要素と説きます。さらに密教では、そこに広々とした「虚空」(空大)を加えて「五大」を説き明かしました。追善供養(死者の冥福を祈って行う供養)に建てられる五輪塔や、お墓に立てられる卒塔婆(板塔婆)にも五大が表されています。

 弘法大師空海(774~835)は、五大について次のように説きました。

  五大にみな響あり
  十界に言語を具す
  六塵ことごとく文字なり
  法身はこれ実相なり
                (『声字実相義』)

(地・水・火・風・空の五大は、みな響き合い、十種の世界には言語が備わっている。六種の対象は全て文字であり、真理の仏は飾らないありのままのお姿である)

 私たちは悟りの世界で日々の生活を送っています。そして私たち人間にも仏の心が備わっています。ただ私も含め、ついつい目先の欲望(迷いの心)に流されて、仏の言葉に耳を澄ますことができません。うまく響き合うことができないのは、果たして人間として持って生まれた姿(相)なのでしょうか。

 無住(1226~1312)が記した『沙石集』という仏教説話集に、次のような話があります(「老僧の年隠したる事」)。

 武蔵に西王という僧侶がいました。「お年はいくつですか」と人が尋ねたところ、「60歳には余ります」と答えます。70歳過ぎに見えたので疑わしく思い、「60歳にはどれくらい余っているのですか」と尋ねると、「14歳余ります」と答えたのでした。あまりの超え過ぎでした。70歳と言うよりも、60歳と言えば少し若々しい気持ちがして、このように答えたのでしょう。これは「人の心の常」なのです。

 この話は、人生経験を積んだはずの僧侶でさえも、若く見られたいという願望を持っていたことを打ち明けた笑い話です。どことなく現代にも通じるものがあるのではないでしょうか。

 時代を問わず、人の心はなかなか執着(物事にとらわれること)から離れられないものですが、『沙石集』ではさらに人の身体のことにまで言い及んでいます。

 人の身体は、父母の精を受け、地・水・火・風の四大が仮に集まって作られたものです。堅いところは地、濡れたところは水、暖かなところは火、動くところは風なのです。この中に自分自身というものは何もありません。心こそが私だと言っても、迷いの心が次々に生じては消え去り、少しも留まることがなく、いつか息が絶えれば心も失せて、この身も四大(地・水・火・風)に帰っていくのです。

 無住は、賢い人も卑しい人も、あの世には何も持って行くことができないと語ります。しかしこれは、人間の燃えさかる欲望を鎮めるために、敢えて執着から離れることの必要性を訴えたものと言えるでしょう。

 お寺に住む小僧さんたちが、日々暗誦(そらで覚えて、口に出して唱えること)していた言葉があります。

  富はこれ一生の財、身滅すれば即ち共に滅す。
  智はこれ万代の財、命終れば即ち随って行く。

 これは、幼い子供を教えさとす『実語教』という書物の一節です。この世で得た富は身体とともに消えてしまうけれど、備わった智は万代の財として、いつまでもこの身に寄り添うというのです。

 移ろいやすく、流されがちになる生活の中で、永遠に変らないものを感じたい。仏の教えに心を澄ませ、一歩一歩、揺るぎない智慧を身につけたいものです。


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最後までお読みくださりありがとうございます。