春休み中は小さなお子さんもお参りに訪れます。
ロウソクにお線香をかざして火をつけたり、鐘を鳴らしたり。。。全てが興味津々。
お寺にお子さんの元気な笑い声が響き渡るのは嬉しいものです。
今回の文章は、これまでと少し視点を変えて、「笑顔」をテーマに、微笑みの大切さについて書いたものです。
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「法の水茎」14(2013年8月記)
お盆(旧盆)の数日間は、日常とは異なった特別な気持ちになれるものです。お迎えしたご先祖様にお供え物をして、香華を手向け、日頃の息災に対して感謝の気持ちを捧げます。ご先祖様の微笑みに抱かれながら、満ち足りた時が流れます。
微笑みと言えば、口許がやや笑ったように見える仏像の特徴を「アルカイック・スマイル」と呼びます。遠く古代ギリシアの彫像に共通する表情は、日本においても飛鳥時代の仏像に見ることができます。弥勒菩薩という仏様が、右手の指先を軽く頬に触れて、温和な微笑を浮かべながら思索するお姿を思い浮かべる方もおられるのではないでしょうか(弥勒菩薩半跏思惟像)。
「笑」という文字は、古くは「咲」とも書きました。声を立てる「笑い」に対して、花の蕾が綻ぶように、ニコニコした表情を「咲む」(微咲む)と表現したのでしょう。『万葉集』にも「青柳の細き眉根を咲みまがり」(柳の葉のような細い眉を曲げるほどに微笑み零れて)として、優美な女性の姿が描かれています。
「微笑み」にはさまざまな種類があります。物事がうまく進んだときにこっそりと笑うことを表す「ほくそ笑み」もその一つでしょう。現代では「しめしめとほくそ笑む」のように、何か意地悪げな表現としても用いられる言い回しですが、この言葉について鎌倉時代の説話集には次のようにあります。
昔、中国の唐の都に、北叟という男がいました。世の中は無常(全ての物は変化して止まらないこと)であることを知っていたので、君主に仕えて名利(名誉と利欲)を欲しがる心もなく、自分のために財宝を貯える気持ちもありませんでした。
彼は、静かな都の北に住まいを定めて、柴の庵(粗末な家)を建てました。質素な麻の衣服を着ては寒さを防ぎ、草を摘み木の実を拾っては飢えを凌ぐという生活を、何年にもわたって送っていました。
そして、嬉しいことを見ても少し咲み、悲しいことを聞いても僅かに咲んだと言います。これは「悦び」も「憂い」も長続きすることはなく、「善」も「悪」もいずれは全て夢と成り行くという無常の道理(どうり)を知った上でのことでした。今の人も、ちょっと咲むことを「ほくそ咲」(北叟笑)というのは、この「北叟」の故事によるのです(無住『妻鏡』)。
北叟という人物は、「塞翁が馬」(『淮南子』)という故事で有名な「塞翁」(北の翁)のことと伝えられています。「人間万事塞翁が馬」という言葉は「世の中は常に変化することから、何が幸で何が不幸なのか予測しがたいこと」を意味し、不幸にあっても行き過ぎて憂えず、幸せを得ても決して浮かれることがないようにと諭しています。
人は時に必要以上に心を浮き沈みさせ、感情を顕わにしてしまうものです。ここに登場する北叟は、世の無常を理解していたからこそ、心が些かも動揺することなく、いつも微笑みを絶やさなかったのでしょう。日によって仏様は、笑っているようにも怒っているようにも見えるものですが、北叟もまた、嬉しいときには「喜びに満ちた微笑み」を、悲しいときには「愁いを含んだ微笑み」を、何事にも乱されることなく湛えていたのかもしれません。
さて、日本にも微笑みを絶やさなかった方がおられました。それは、真言宗の開祖、弘法大師空海(774~835)に、「弘法大師」という諡号(贈り名)を授けた醍醐天皇(885~903)です。平安時代後期に成立した『大鏡』という書物の中で、180歳ばかりの夏山繁樹という長老が、醍醐天皇の温かさを物語っています。
だいたい醍醐天皇は、いつも微笑んでいらっしゃいました。その理由は、「真面目くさく振る舞う人には物を言いにくい。和やかにしていると、人は話をしやすいのだ。だから、大小事にかかわらず全てを聞こうと思って笑んでいるのだよ」とのお言葉でした。それは、もっともなことです。「気憎き顏」(そっけない顏)には、話しかけにくいものです(『大鏡』下)。
醍醐天皇は、どんな事柄も笑顔で受け止めていたのでしょう。あらゆる声に耳を傾けていたからこそ、仏の教えを弘め、多くの人々を済った空海に対して「弘法大師」という称号を贈られたのかもしれません。
「微笑みに敵なし」「笑顔に福あり」という諺もあります。ニコニコとする表情に、嫌な思いをされる方は少ないでしょう。ただ、日々の生活の中で、ついつい落ち込んだり腹を立てたり……微笑みを持続するのは並大抵のことではありません。
夫れ、花は咲みて声なし。
鶏は鳴きて涙なし。
(景戒『日本霊異記』下)
(花は咲いても声を立てない。鶏は鳴いても涙を出さない)
お盆はご先祖様を迎えるとともに、いつもはなかなか顔を合わせることができない家族の帰りを心待ちにされている方もおられるでしょう。私たちの周りは静かな慈しみ(悲しみ)に溢れています。ろうそくを灯せば、そこには「慈悲の微笑」が確かに揺らめいているはずです。
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