坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「不綺語」のお話①~上辺だけの言葉~「法の水茎」50

白山吹の花。

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白山吹

山吹は花びらが5枚、白山吹は花びらが4枚。別の種類です。


今回の文章は、十善戒の「不綺語(ふきご)」をテーマに、上手く飾って表現した言葉について書いたものです。
 
    ※      ※

「法の水茎」50(2016年8月記)

 



  暈(かさ)もなく 梅雨明けのこの 大月夜
              (星野立子)
 長かった梅雨も過ぎ去り、くっきりとした輪郭の雲が、青空の海を泳いでいます。「梅雨明十日」と言われるように、梅雨が明けてからの数日は、好天が続くことが多いようです。

 この冒頭の句は、父が高尾山での修行中、高浜虚子の娘で俳人の星野立子先生(1903~1984)より頂戴したものです。「暈もなく」の「暈(かさ)」は、「太陽や月の周りにできる光の輪」を意味します。「暈」は「傘」と同語源とされますが、傘も持たず、雨の心配もなくなった夜空に、まどかな満月が輝いていたのでしょうか。淡く朧気だった月が、梅雨明け後はすっかり雲のベール脱ぎ捨て、夏の夜空を清かに照らす光景が思い浮かびます。

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星野立子先生短冊


 8月に入ると、すぐに立秋が訪れます(今年は8月7日)。朝夕に感じ始める風の心地よさに、実りの秋の到来を待ち望みます。この季節は、夏の行事を楽しみながら、移りゆく自然に心澄ませる折節でもあるのでしょう。

  初秋の 中の五日の 今宵こそ
   亡き人数の ほどは見えけれ
          (『西行物語』)
(秋の初めの陰暦7月15日の今夜こそ、祖先を送る火によって、亡くなった人の数を知ることができるよ)

 8月も中旬になると、月遅れのお盆(盂蘭盆)を迎えます。最終日に焚かれる「送り火」は、亡き親族との別れを惜しむように瞬いていたのでしょう。この歌を詠んだと伝えられる西行(1118~1190)は、お盆の揺らめく炎に、御先祖様の面影を重ねています。

 ところで、詩や小説など、上手く飾って表現した言葉を「綺語(きご)」と呼びます。「真実を伴わない上辺だけの言葉」であることから、仏教では「不綺語(ふきご)」(綺語を言わない)として戒められています。仏の道を歩む者であれば尚更のこと、お経を読むほうが大事であるというのでしょう。これは確かに尤もなことですが、先ほどの西行の和歌なども、罪悪を作る原因となってしまうのでしょうか。

 「綺語」をめぐっては、次のような話があります。

 昔、比叡山の僧恵心(えしん)僧都(942~1017)は、修行の他に関心がなく、仏法を信じていて、飾った言葉で作られた小説や物語など憎んでいました。

 恵心の弟子の稚兒(ちご)(寺の子供)の中に、朝夕に心を澄ませて、和歌ばかりを詠じている者がいました。恵心は「稚児というのは学問をするのが本来の姿である。この稚兒は和歌ばかり好んでどうしようもない。他の稚兒が真似をして修行を怠ってしまうので、明日、里へ帰そう」とお考えになりました。

 稚兒は師の思いも知らず、月が冴えて静かな晩、縁側に立ち出でると、手水(浄める水)を使おうとして歌を詠みました。

  手に結ぶ 水に宿れる 月影の
   あるかなきかの 世にもすむかな
(掌にすくった水に映っている月影が儚いように、私たちは有るのか無いのか分からないような世の中に住んでいるのだなあ)

 僧都はこれを耳にして、歌の内容と言い、姿と言い、心に染み入るほど感動したので、この稚兒を側に留めることにしました。またそれ以来、自らも歌を好きになって、代々の和歌集にも、僧都の歌が入る程になったということです。
            (無住『沙石集』)

 恵心僧都は、稚兒の歌によって心を改めました。和歌の中に、世の中は常に移り変わるという「無常観」の教えが含まれていることを感じたのでしょう。稚兒が口ずさんだ歌は、実は紀貫之(872~945)が詠んだものですが、日頃から仏の教えが込められた和歌を暗誦し、心を研ぎ澄ませていたことが想像されます。それは仏道修行に反するものではなく、仏の深遠なる教えにつながっているものだったのでしょう。

 西行はお盆に照り輝く月を見ながら、次のような歌も詠っています。

  いかで我 今宵の月を 身に添へて
   死出の山路の 人を照さん
           (西行『山家集』)
(何とかして私は、今宵の月を側に置いて、死出の山路(険しい山道)を越えていく人々を照らしたいものだ)

 雲のない大月夜は、仏様そのもののお姿です。秋の深まりとともに、さらに輝きを増す月光のように、自らの心月にかかっている暈(かさ)も、少しずつ脱ぎ捨てていきたいものです。

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最後までお読みくださりありがとうございました。