東京は桜が満開のようですが・・・栃木の満開は1週間後でしょうか。
水屋の水面に春の花が浮かんでいたら。。。それは4歳の息子のイタズラです。
お花がかわいそうだと言っているのですが、どうにもお気に入りのようです。
さて今日の文章は、「空」をテーマに、雨の言葉や、仏さまが降らせる「法の雨」について書いたものです。
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「法の水茎」12(2013年6月記)
「ぽつぽつ」「ざーざー」「ぽたりぽたり」……雨の降る様子をあらわす言葉はさまざまです。古い書物にも「そぼそぼ」「とどろとどろ」といった雨音が出てきます。雨は時に応じて多彩な表情を私たちに見せてくれるのです。
古来、日本人にとって雨は重要な関心事であったため、日本語には「春雨」「霖雨」「時雨」「寒雨」など、「雨」に関わる言葉が多いと言われています。
旧暦5月(新暦では5月下旬から7月上旬)に降る長雨を「五月雨」と言います。
「池がある場所の、五月の長雨の頃こそ、しっとりと落ち着くものだ。菖蒲・菰などが生い茂って、水面までも青く見えるので、庭も池も同じ色に見渡すことができる。曇り空を物思いに耽りながら眺め暮らしていると、しみじみと心に染みてくる」
(『枕草子』)
「五月雨」は「乱れ」に通じるように、ぼんやりと「長雨」を「眺め」ていると、沈んだ気持ちになり、時として心が動揺するものです。こうした長雨の景色に、清少納言は美しさを見出しました。青々とした木々の息吹を感じることによって、心の潤い(ゆとり)が生まれたのでしょうか。
五月雨には中休みも付きものです。今では新暦5月の晴天を指す「五月晴れ」という言葉ですが、もともとは「梅雨の晴れ間」(梅雨晴れ)を意味します。
あふち咲く そともの木かげ 露おちて 五月雨晴るる 風わたるなり
(『新古今集』藤原忠良)
(楝の花が咲いている後ろの庭の、その木陰に雨の雫が滴り落ちる。五月雨の晴れ間を、初夏の風が吹き渡る)
楝は、夏の初めに淡い紫色の花を咲かせます。別名を「栴檀」と称するこの花は、雨上がりの微風に乗って、辺り一面に気高い香りを漂わせたのでしょう。
この季節は、雨音を聞きつつ山川の潤いを実感し、雨の合間にもまた草木の喜び(香気)を知ることができるのです。
雨は、仏の教えとも深く結びついています。平安時代の終わり頃に作られた、次のような歌謡があります。
釈迦の御法は ただ一つ 一味の雨にぞ 似たりける
三草二木は 品々に 花咲き実なるぞ あはれなる
(『梁塵秘抄)』)
「一味の雨」とは、雨が分け隔てなく潤すように、仏の教えも平等に降り注いでいることを例えています。草木は小さいものから大きなものまで異なっているけれども、雨の恵みを受けることによって、いつかは花が咲き実を結びます。同じように人間も一人一人、性格も能力も違うけれど、仏の教えによって悟りの世界に入ることができるというのです。
ある所に、日頃から法華経を読誦していた雲浄という僧侶がいました。霊験を得ようと熊野詣に出た時のこと。旅の仮寝に大きな洞穴に入ると、夜中に突如として大きな毒蛇が現れ、雲浄を呑み込もうとします。
雲浄は驚きながらも「私は毒蛇のためにここで命を捨てようとする。ただし、私は法華経の法力によって悪趣(苦しみの世界)に堕ちることなく浄土に生まれよう」と思い、さらに一心に法華経を読み上げたのでした。
毒蛇はたちまちに姿を消します。外は雨が降り、風が吹き、雷が鳴って、洪水が起こりましたが、やがて空はすっかり晴れ渡りました。
すると目の前に一人の男が現れ、雲浄に礼拝して語り出します。「私はこの洞穴に住み、長い間生き物を傷つけ、ここに来た者を食してきた。今もまた聖人を呑もうとしたが、法華経を読誦する声を聞いて、私はたちまち悪心(悪事をしようとする心)を止めて善心(良心に恥じない心)を起こした。今夜の大雨は本当の雨ではない。私の両眼から溢れ出た涙なのだ。罪業を滅した慚愧懺悔(過去の罪を神仏の前で告白し、悔い改めること)の涙を流したのだ」と。
(『今昔物語集』)
雲浄の直向きな読経の声は、毒蛇の頭上に「法の雨」として降りかかったのでしょう。枯渇した心を潤した「慈しみの雨」であったのかもしれません。毒蛇は法雨によって、心の中の毒(煩悩)をすっかり洗い流したのでした。毒蛇にとっては、汚れない心になって初めて知った「身を知る雨」(感涙)だったのではないでしょうか。
『法華経』には、次のような文言があります。
甘露の法雨を澍ぎて
煩悩の焔を滅除す
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