坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

「道のり」のお話⑦ ~ 『高尾紀行』二種、近代の幕開けを告げる鉄道旅 ~ 「法の水茎」163


二十四節気の「小寒」を迎えて、いよいよ寒の入りとなりました。
地面に残っている落ち葉を踏みしめながら「シャカシャカ」という冬の音色に耳を傾けてみます。


春を求めて庭先を歩いてみました。



木蓮の蕾が日に日にふくらんで来ています。春の訪れが待ち遠しいですね。

永代供養墓にも多くの方がお参りにいらしています。


私のほうは新年のお檀家さんまわりも一段落。
今は近所の方やお留守だった方が年始の御挨拶に来てくださっています。
本年も何とぞよろしくお願い申し上げます。


1月の『高尾山報』「法の水茎」では、明治期に高尾山薬王院を訪れた二つの紀行文『高尾紀行』(正岡子規・内藤鳴雪と弘前金剛山最勝院第33世妙海)を取り上げながら「鉄路による祈りの通」について書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」163(2026月1月号)


  岩間とぢし氷も今朝は解け初めて

   苔の下水道もとむなり

        (『西行法師家集』)

(岩の間を閉ざしていた氷も今朝は解け初めて、苔の下を流れる水が通り道を探し求めているよ)

 元日の夜が明け初めると、その力強い日の光に心打たれます。初日の出に限らず、いつもと変わらない日常の全てが今年初めての光景……新たな年を迎えた清々しさと希望を胸に抱きながら、今年一年の健康と幸せを願います。

 冒頭の和歌には「苔の下水」という歌語が詠み込まれています。「苔」は人の往来が少ないところに生えるところから「俗世間から離れた場所」を意味し、「苔衣」「苔の袂」という言葉があるように「僧侶」や「隠者」にも喩えられます。続く「下水(したみず)」には「物陰や物の下を流れる水」とともに、表面には現れ出ることのない「ひそかに心に思う気持ち」も込められているでしょう。この歌には、春を迎えて気持ちも新たに仏道を追い求めようとする僧侶の姿が見て取れるようです。

 高尾山薬王院においても、日々一心に祈りが捧げられています。これまでの長い歴史の中で、どれほどの願いや思いを受け止めてきたでしょうか。先月号では「北国街道」を辿りながら、飯縄大権現様の「霊妙な面影」を感じてみましたが、今回は実際に高尾山を訪れた二つの紀行文『高尾紀行』を取り上げながら、その「祈りの面影」に思いを馳せてみたいと思います。

 まずは明治時代を代表する文学者、正岡子規(1867~1902)の紀行文『高尾紀行』に次のような句が見えます。

  ぬかづいて飯縄の宮の寒きかな

           鳴雪

     (正岡子規『高尾紀行』)

 明治25年(1892)12月7日、正岡子規と、その俳句の弟子であった内藤鳴雪(1847~1926)は、師走の高尾山へ「俳句修行」の旅に出かけました。この句は鳴雪が、高尾山薬王院の御本尊、飯縄大権現様に詣でた際の想いを詠ったものです。

 初句「ぬかづいて」(額突いて)は、額を地に付けるように丁寧に拝む姿です。結句「寒きかな」には、冬の寒さと高尾山の厳粛な雰囲気も重ね合わされています。お山に登ってこそ得られた有り難い心境と言えるものでしょう。

 あらためて、この一泊二日の旅の行程を眺めてみると、早朝の新宿駅から中央本線(中央線)に乗り込み八王子駅へと向かっています。途中、荻窪の辺りでは、車窓から遥かに富士山を仰ぎつつ句作に励んでいる様子も記されています。

 中央本線(前身は甲武鉄道)は、明治22年(1889)中に新宿駅・八王子駅間が開通しました。荻窪駅は明治24年(1891)の末に開業していますから、子規が旅した頃は真新しい駅舎だったかもしれません。ちなみに高尾駅(前身は浅川駅)の開業は明治34年(1901)。八王子駅で降り立った二人は、道々でコマ回しの大道芸を楽しんだり茶店で休息したりしながら風流の材料を探しています。

 御本尊様をお参りした後は、山頂へと歩を進めました。広大な「武蔵野八百里」の景色を見下ろしながら、子規は一句を口ずさみます。

  凩をぬけ出て山の小春かな

 冷たい北風を一歩「抜け出た」先にある穏やな心持ちでしょうか。高尾山の山や水の美しさを肌で感じたからこその感動と言えるものでしょう。

 正岡子規一行が訪れた約半年後の明治26年(1893)6月、弘前金剛山最勝院(青森県弘前市銅屋町)の第三十三世となった真言僧侶妙海師(齋藤妙海・1831~1907)は、高尾山薬王院への旅に出かけました。その紀行文『高尾紀行』によれば、旅の目的は高尾山薬王院の寺主であった百済範真僧正との対面と語っています。時に妙海は63歳、範真45歳。同じ真言宗の僧侶の中でも特に「ゆかりのある人」(つながりの深い人)と記していることからも、18歳差の両師の交友は、激動の時代の長きにわたって育まれていたことが想像されます。

 紀行文には、199首の和歌が書き連ねられています。その冒頭には、

  高尾山高き御法の門さして

   いざ訪はむ都見てから

(高尾山の山腹にある薬王院を目指して、さあ行って訪ねよう、東京の物見遊山も楽しみながら)

と見え、東京観光を兼ねての旅路でもあったのでしょう。

 早朝の青森駅6時10分発の汽車に乗り、仙台に一泊して、翌日の夜9時過ぎに上野駅に到着。さっそく不忍池に映る月を見て、

  蓮葉の露に宿れる月見れば

   秋の最中も不忍池

(蓮の葉の露に映り込んでいる月影を見ていると、秋の最中(中秋の名月の頃)のように隈なく輝く不忍池であるよ)

と詠っています。東北本線、青森・上野間が全線開通したのは、明治24年(1891)ですから、まだまだ物珍しい鉄道旅であったでしょう。

 数日の東京見物をしてから、いざ高尾山へ。新宿・中野・立川・日野を経て八王子駅に到着。高尾山麓の川面の宿から、北に向かって九十九折の坂道三十六町をひたすら登って本坊薬王院に辿り着いています。

 清瀧・二本の松・琵琶瀧・一本杉・蛇瀧などの名所で歌を詠みつつ諸堂参拝。毎日盛んに行われる護摩祈祷について、

  高尾山高き御法のともしびを

   高くかかぐる峯の大寺

(あらゆる迷いを払い除ける法の灯火を、この世に広く教え伝える峯の大寺、ここ高尾山よ)

と詠っています。残念ながら範真僧正は寺の要用で不在であったため久しぶりの対面は叶いませんでしたが、その名を聞きつけた多くの僧侶によって歓待を受けたのでした。

 正岡子規と内藤鳴雪の二人旅も、妙海師の一人旅も、近代の幕開けを告げる鉄道の旅となりました。新しく敷かれた鉄路が、人々の思いや求道心をつなぐ「祈りの道」となったのです。



 

 

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最後までお読みくださりありがとうございました。