坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

弘法大師空海のお話㉒ ~ 日本と大陸とをつなぐ要衝の地、壱岐・対馬・五島列島 ~ 「法の水茎」144


関東地方も夏至の日に梅雨入りとなりました。
平年よりも2週間ほど遅いそうです。


庭の草花も恵みの雨を感じているようです。

さて、今月の『高尾山報』「法の水茎」も弘法大師空海をめぐるお話です。日本の西の最果て壱岐・対馬・五島列島とお大師さまとの結びつきについて書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」144(2024年6月号)


 新緑の風に愛らしく揺れていた若葉も、いつしか緑が濃くなってきました。恵みの雨を全身に受けて成長する姿に、力強い命の輝きを感じます。

  五月闇おぼつかなきに時鳥

   鳴くなる声のいとどはるけさ

(五月雨が降るぼんやりとした闇夜に、時鳥(ホトトギス)の鳴き声が遥か遠くから聞こえてくるよ)

  (『和漢朗詠集』明日香皇子)

 五月雨(梅雨)の頃の夜の暗さを「五月闇」と言います。暗がりに沈んだ山の奥から闇を切り裂くようにホトトギスの声が聞こえてきたのでしょう。「春の夜の闇はあやなし梅の花」(『古今集』)という歌もありますが、春の闇に隠しきれなかった梅の香りのように、ホトトギスの鳴き声もまた暗闇の中で存在感を放ちます。甲高い声を周囲に轟かせながら、いったい何を訴えかけているのでしょう。

 梅雨の宵晴れに目をこらせば、水辺の草むらで光る蛍に出会えるかもしれません。

  音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ

   鳴く虫よりもあはれなりけれ

(声を出さないで思いが燃え上がる蛍こそ、鳴く虫よりも味わい深く心に沁みるよ)

    (『後拾遺集』源重之)

 この歌では「思い」の「ひ」に「火」が掛(か)けられています。「感情の炎」によって光彩を放っている蛍に、内に秘めた思いの深さを感じ取っているのでしょうか。「鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」という諺もあります。声を立てなくても、私たちの周りにはたくさんの「思の火」(悲しみや怒り、思慕などで燃えたつ心)が満ち満ちているようです。

 ちなみに蛍と言えば「蛍火を以って須弥を焼く」(『円覚経』)という言い回しがあります。「須弥(しゅみ)」とは仏教で説くところの「須弥山(しゅみせん)」(世界の中心に高く聳えるという高い山)のことで、か弱い蛍火で須弥山を焼こうとする様子から「力の弱い者が成し遂げられそうにない大きな仕事を計画する」という意味で用いられるようになりました。ただ一方では「蛍を集める」(苦労して学問に励む)という言葉もあります。たとえ小さな灯火であっても、継続して努めればやがては大きな力となっていくのでしょう。

 さて今月号では、日本の四方の境界から、西の果てに位置する長崎県の壱岐・対馬を取り上げ、弘法大師空海(774~835)との結びつきについて書いてみたいと思います。

 平成27年(2015)、壱岐・対馬・五島列島一帯は「日本遺産」に認定されました(タイトル「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」)。この地域はとして、古くから多くの人々が行き来してきました。

 お大師さまも延暦23年(804)に、この海域を通る遣唐使船に乗って唐(中国)へと渡りました。現在、五島市福江島北部の三井楽半島には、遺徳を顕彰するための石碑(「辞本涯の碑」)があり(昭和61年〔1986〕建立)、そこにはお大師さまの漢詩文集『性霊集』から「辞本涯(じほんがい)」(日本を離れる)という文言が刻まれています。雄大な東シナ海の中を、若き日のお大師さまを乗せた船は進んでいったのでしょう。

 同様に、壱岐・対馬も日本と大陸とをつなぐ要衝の地です。

  船出せし博多やいづら対馬には

   知らぬ新羅の山ぞ見えける

(船出した博多はどの方角だろう。対馬からは見たこともない新羅(古代朝鮮の国名)の山々が見渡せるよ)

     (津守国基『国基集』)

という和歌もあるように、対馬は日本本土よりも韓国に近く、その距離は約50キロメートルしか離れていません。

 こうした日本の西の最果てに位置する対馬にもお大師さまの伝承が残されています。対馬の地誌『津島紀事』(文化6年〔1809〕成立)には、「遍照山暢願寺」というお寺の説明として次のように記されています。

 大同元年(806)のこと。唐より帰国の途にあったお大師さまは、途中対馬の小船越村(現在の対馬市美津島町小船越)の地に立ち寄りました。しばらく逗留する間に寺を建立寶光寺と名付け、自らの像を刻んで寺に安置してから帰られました。

 それから長い年月が経ち、少しずつ像は傷んできました。そこで、天和2年(1682)に暢願寺へと遷座(仏の座を他所へ移すこと)したのです。また、お大師さまは一七日(7日間)の護摩行(密教の修法)を行って、その薪の灰を練り集めて弁才天女の像を作られていました。その像の背には、お大師さまが指で押した跡が残っています。この仏像も暢願寺)に留め置かれました。
        (『津島紀事』)

 お大師さまが留まった小船越村は朝鮮との交流が盛んな場所でした。村の西側には入江「西漕手」があり、その北側の丘にあった寶光寺跡は、今でも「弘法屋敷」「弘法壇」と呼ばれています。

 ちなみに、この辺りを「高野」と言い、それは和歌山県の高野山との縁による地名とか。対馬と高野山との関わりから言えば、高野山奥院経蔵に納められている「高麗版一切経」は、室町時代に対馬の豪族であった宗氏が入手し、後に対馬の八幡宮から石田三成(1560~1600)の手に渡って高野山に奉納されました(『日本歴史地名大系』参照)。高麗版一切経は対馬の多久頭魂神社にも残されており、こうしたお経)の伝来からも対馬を集積地とした信仰の広がりをうかがい知ることができます。

  新羅の道者

  幽尋の意

  錫を持して

  飛来するは

  恰も神に似たり

(高野山の僧房に新羅の修行者が来てくれた。道理を求める奥深い心を持ち、錫杖(杖)を持って飛ぶようにやって来られた姿は、まるで神のようであった)

    (『経国集』空海)

 海路がつないだ交流は、生涯にわたって続いていたのでしょう。「神さま」に喩えられた新羅の修行者の目には、お大師さまが輝く「仏さま」のように映っていたかもしれません。


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最後までお読みくださりありがとうございました。