坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

弘法大師空海のお話① ~ 神童と呼ばれた幼少期 ~ 「法の水茎」122


お盆入りの日。
台風近づく空模様のもと、ナツズイセンが咲いています。


夕方には、ご先祖様をお迎えしました。
炎が揺らめいています。


穏やかでお静かなお盆をお過ごしいただければと思います。

さて「法の水茎」のほうは、今月から「弘法大師空海のお話」として、とくに文学との関わりをテーマとしてみました。まずは『今昔物語集』に見える幼少期のお姿からです。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」122(2022年8月号)




 8月1日は「地獄の釜の蓋が開く日」。関東地方の一部では、この日を「釜蓋朔日(かまぶたついたち)」と呼び、ご先祖様があの世から家々に向かって出立する日と言い伝えています。

  とことはに吹く夕暮の風なれど

    秋立つ日こそ涼しかりけれ

     (『金葉集』春宮大夫公実)

(いつものように吹き渡る夕暮れの風だけれど、今日の立秋の日にはことさら涼しく感じられるよ)

 お盆までの折り返しとなる8月7日には、二十四節気の立秋を迎えます。夏の終わりにお立ちになったご先祖様も、旅の途中で秋の風を感じているでしょうか。私たちも、月遅れの七夕の夜に思いを馳せながら、盆はじめとしてご先祖様をお迎えする準備を始めます。

  礼し拝むただ秋萩の一枝も

   仏の種は結ぶとぞ聞く

  (藤原定家『拾遺愚草員外』)

(心を込めて手を合わせる。お供えしたただ一本の秋萩の枝にも、仏さまとのご縁が結ばれると聞くよ)

 お盆が近づけばミソハギ(禊萩)の花も咲き出します。整えられた精霊棚にお飾りして手を合わせれば、お帰りになったご先祖様もきっと喜ばれるでしょう。

 さて今月号からは、数回にわたって弘法大師空海(774~835)について、とくに文学との関わりから書いてみたいと思います。

 言うまでもなく、空海は真言宗の開祖(お開きになった方)です。恩徳を慕いつつ「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」の七文字をお唱えになっている方もいらっしゃるのではないでしょうか。平安時代の初めに活躍なされた方ですが、今でも「弘法大師(こうぼうだいし)」の諡号(しごう)(贈り名)に親しみを込めて「お大師さま」「お大師さん」と呼称されているのを見ると、私たちの心の中にもずっと生き続けているように思います。

 来る令和5年(2023年)は、宗祖弘法大師空海御生誕1250年の記念の年にあたります。間もなく1250歳のお誕生日をお迎えになるのです。

 そこであらためてその御生涯を振り返ってみたいのですが、その功績はあらゆる分野に及んでおり、簡単に論じることができません。こと文芸との関わりから見ても、三筆の一人に数え上げられるほどの書家でもあり、すぐれた漢詩人でもあり、時には和歌を嗜み、また多くの伝説類も残されているなど、さまざまな場所での多彩な活躍が伝えられています。

 空海については、平安時代の『空海僧都伝』や『弘法大師伝』といった書物に伝記がまとめられていますが、例えば平安時代末期の説話集『今昔物語集』の中にも出自から真言宗を弘めるまでの足跡が書き記されています。そこでまずは、『今昔物語集』に語られている空海伝について見てみましょう。

 今となっては昔のこと。弘法大師という高徳の聖がおいでになった。俗姓は佐伯氏、讃岐国(現在の香川県)多度郡屏風浦の人である。母親は、高僧が体内に入る夢を見て懐妊し、この子がお生まれになった。

 その稚児は、5、6歳になると泥で仏像を造ったり、草や木でお堂のような物を建てたりして遊んでいた。ある時には、八葉の蓮華の中で多くの仏さまと語り合う夢を見たが、それを両親にも誰にも語らなかった。

 両親はこの子を尊敬していた。またある人が見ると、4人の童がいつもこの子に従って礼拝していたという。この子は「神童(しんどう)だ」と噂された。

 母親の兄の一人で五位の貴族であった伊予親王という人に漢籍の手ほどきを受けた。その甲斐あって、文章道が上達した。延暦7年(788)、15歳で京に上り、大学寮の学者に付き従って、『毛詩』『左伝』『尚書』などを読み学んだが、それらはすでに前から理解しているかのようであったという。

 それなのに、この子は漢籍よりも仏道を好んで、しだいに出家をしようと思い始めた。そこで、大安寺の勤操僧正という僧に会って、虚空蔵菩薩の求聞持法(ぐもんじほう)を学び、心を込めて念じ祈るようになっていったのである。

     (『今昔物語集』巻十一)

 ここに挙げたのは、出だしの一部分に過ぎません。空海は子供の頃から仏さまに親しみ、周囲からは「神童」(非凡な才知を持った子)と呼ばれていたそうです。幼い頃から漢籍を学び、さまざまな書物に接していますが、これは例えば空海の甥(もしくは姪の息子)にあたる智証大師円珍(814~891)の伝に、「十歳にして『毛詩』『論語』『漢書』『文選』などの俗書を読んだ」(『今昔物語集』)という記述とも軌を一にするものでしょう。幼い頃に仏教以外の書籍(外典(げてん))を学び、仏の道に興味を抱いて、やがて仏教の典籍(内典(ないてん))へと分け入ったのです。その後、空海がどのような道を歩んでいったのか、それはまた次回といたしましょう。

  身は花とともに落つれども、

  心は香とともに飛ぶ。

       (空海『性霊集』)

(この身は花とともに落ちたとしても、心は花の香りとともに広がる)

 お盆に供えたミソハギの花は、やがてハラハラとこぼれ落ちるでしょう。ただ、ご先祖さまを敬う心は、秋を迎えても離れることなく、色あせることもありません。今に生きるお大師さまを慕いつつ、その余薫(よくん)(恩恵)を、しっかりこの身に焚き染めたいと思います。

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最後までお読みくださりありがとうございました。