坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「道」のお話⑭~ 正直の道、誰にでも誇れる財産 ~ 「法の水茎」114


冷え込みの厳しい朝。
気温も氷点下まで下がりました。

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庫裏の前にはバラが一輪咲いていました。
まるで霜柱に負けまいと、白色を競っているかのようです。

今年最後の『高尾山報』「法の水茎」です。これまで書き進めてきた「道」をテーマとする文章も、今月号で一区切りといたしました。最後は「正直の道」です。一休さんのトンチ話を引用しながら、心に問いかける大切さについて書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」114(2021年12月号)



  

  年光は自ら燈の前に

  向うて尽きぬ

  客の思ひはただ

  枕の上より生る

     (『和漢朗詠集』尊敬)

(年月は瞬く間に過ぎゆき、今年も灯のように尽きようとしている。そんな人生の旅路の愁いが、冬の枕元から込み上げてくる)

 錦を織った山々の紅葉も、時雨のような風を受けて、すっかり枝から離れ落ちました。今年も気づけば歳末。月並みな言い方ですが、月日の流れの早さが身に沁みます。

 冒頭の漢詩のように、人の一生はロウソクの炎のように燃え尽きてゆくのでしょうか。寒さを感じる冬の深夜に、胸の鼓動を感じつつ人生の儚さを実感します。

 これまで十数回にわたって「道」をテーマに書き進めてきました。お釈迦様が悟られた成道(じょうどう)や出家の道、薪や花の仏の道、星・月・雲の通り道の話など、「道」は仏さまの教えとも深く関わっています。そこで今回はその一区切りとして、「正直の道」について書いてみたいと思います。

 「正直」と聞くと、どのような言葉を思い浮かべるでしょうか。「素直さ」を表す「子供は正直」という言い回しや、「確実性」を意味する「三度目の正直」、愚直な「馬鹿正直」という要領の悪さをイメージするかもしれません。「正直」には、さまざまな意味合いが込められています。

 次のような和歌があります。

  日暮れたりいざ帰りなむ子泣くらむ

   その子の母も我を待つらむ

     (伝藤原定家『桐火桶』)

(日が暮れてしまった。さあ帰ろう。家では子供が泣いているだろう、その子の母も私を待っているだろう)

 この歌は、室町時代の歌人によって、誠実な「正直の歌」と評されています(馴窓『雲玉集』)。冬が近づき、日ごと夕闇が迫ってくる中で、家路を急ぎたくなる気持ちも分かるような気がします。素直な思いは、今も昔も変わりません。

 「正直」(素直)は、神仏の教えとも結びついています。例えば『西行物語』には、伊勢神宮の社殿について、千木や鳥居、鰹木や垂木などの建築様式が、曲がらずに真っ直ぐ造られているのは、「人の心を素直にさせよう」とする神様の思いを、私たちに伝えているのだという話があります(無住『沙石集』などにもあり)。

 仏教においても「正直」は重んじられています。仏教語で「正直」は「片寄らず、心が素直」の他にも、「真心をもって接すること」、「仏を信じて疑わない心」、「一切の執着を離れた悟りの境地」といった意味も内包します。「正直」は、仏さまの教えに沿った道を一途に歩むことでもあるのです。

 平安時代末期に生きた真言宗中興の祖と崇められる興教大師覚鑁(かくばん)上人(1095~1143)のお弟子さんに正直上人(?~1177)という方がおられました。正直上人は、長年覚鑁のお側近くに仕え、師の命には背くことがなかったそうです。常に修行を怠らず、念仏・観法(仏様を心に思い浮かべる修行)を行いながら亡くなられたと伝えられています(如寂『高野山往生伝』)。その名の通り、仏の道をひたすら突き進まれた御生涯であったと思われます。

 「正直な仏の道」とは、いったいどこに存在しているのでしょう。やはり厳しい修行の先に見えてくるものなのでしょうか。この問いをめぐっては、有名な一休さん(一休宗純、1394~1481)のとんち話が残されています。

 ある日、一休和尚のもとに信者の男がやって来て「私に何か先人の有り難いお言葉をお授けください」と言いました。和尚が「では、仏の道で疑問があれば尋ねなさい」と話すと、男は納得し、そのまま仏殿に向かって走り出し、すぐさま帰り戻ってきました。

 和尚が理由を聞くと、「仏の道は仏殿に通じる道と考えたので見てきました。山門の側にあった鳥の巣は、鷺(さぎ)の巣だったのでしょうか」と語るのでした。「烏(からす)かもしれないぞ」と言って巣を下ろさせると、中には何もありませんでした。

 和尚は一句を口ずさみます。

  鷺(さぎ)の巣を
   おろして見れば
    からすにて

和尚が「これに付句(七七)をしなさい。課題ですよ」と言うと、「何も思い浮かびません。どうか、答えをお教えください」と食い下がります。

 和尚は言いました。「仏性(仏の心)は他人に教わるものではない。自分の心に見出すのだ」と。男はこの言葉に感心し、ついには自分で悟りを開いたそうです。

       (『一休ばなし』)

 ここに登場する男は、仏の道は仏堂への道と考え一目散に走り出しました。一休和尚は「空(から)の巣(す)」と「烏(からす)」を掛けた洒落句を作るなど、男の言動を馬鹿にすることなく温かな目で眺めています。悩む男にお手本となる句を示さなかったのは、自分の外側にではなく、心に問いかける大切さを教えるためでもあったのでしょう。自心の奥底に答えが隠されていると気づいた時、はじめて仏の道のスタートラインに立てたのではないかと考えます。

  おろかなる心の内を尋ねみよ

   ほかに仏の道しなければ

       (『後鳥羽院御集』)

(不完全でいい加減な自分の心の中を探ってごらん。心の外に仏の道はないのだから)

 「正直の道」には「正しく真っ直ぐな人の道」という意味があります。法(のり)の灯(ともしび)で心の暗闇をそっと照らせば、誰にでも誇れる「正直の道」が、どこまでも一直線に続いているでしょう。


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最後までお読みくださりありがとうございました。