坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「無財の七施」のお話④ ~ 身施、この身を捨てて他に尽くす ~ 「法の水茎」118

  
雨上がり。
心地よい朝を迎えました。


八重のサトザクラも、青空に雨の雫を乾かしているかのようです。



 今月の『高尾山報』「法の水茎」は「奉仕」がテーマです。「無財の七施」の四つ目は「身施」。自分の身を捨ててでも他人のために尽くす「利他行(りたぎょう)」の教えについて書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」118(2022年4月号)




 今月4月6日、満開に咲き誇る桜花のもと、大本山高尾山薬王院中興第三十三世、佐藤秀仁御貫首の晋山式(しんざんしき)が執り行われました。この度は誠におめでたく、ますますのご加護とご繁栄を心よりお祈り申し上げます。

  我が宿に咲ける桜の花ざかり

   千とせ見るとも飽かじとぞ思

       (『拾遺集』平兼盛)

(我が家に咲いた桜の花盛りは、たとえ千年もの間見続けたとしても、きっと飽き足りないと思うよ)

 季節は春爛漫を迎えました。辺り一面に、やわらかな陽光が満ちあふれ、にぎやかな鳥のさえずりも聞こえてきます。高尾山の桜も、中腹の薬王院から山頂のヤマザクラへと進んでいるでしょうか。季節の移ろいは、過去から現在、そしておそらく未来にわたって繰り返されますが、今目の前にある花盛りは「二度とないこの瞬間だけ」の光景です。

  花に染む心のいかで残りけん

   捨て果ててきと思ふ我が身に

        (西行『山家集』)

(花を思い続ける心がどうして残ってしまったのだろう。出家をして世を捨ててきたはずの身であるのに)

 桜に心惹かれるのは、今も昔も変わりません。この歌を詠んだ西行法師(1118~1190)は、前号でも取り上げたように、生涯にわたって桜の花をこよなく愛しました。この世の執着(束縛)を離れて、思い切って俗世間から飛び出した西行でしたが、見た目は「墨染衣(すみぞめごろも)」(僧侶の衣服)を身に纏っていても、心は春の「桜衣(さくらごろも)」に包まれていたのでしょうか。僧侶としての「捨てた身」と、一人の人間としての「染む心」の隔たりに思い悩んでいるかのようです。

 今回は、こうした「身」をめぐる布施行について書いてみたいと思います。「無財の七施」の四つ目は「身施(しんせ)」という教えです。「身施」は別名を「捨身施(しゃしんせ)」と呼ぶように、「自分の身体を他に奉仕する」という意味です。

 「身施」について、『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』というお経には「父母・師長・沙門・婆羅門に、起ちて迎え礼拝す」と見えます。「礼拝(らいはい)」は、合掌したり跪いたりして拝む作法です。相手を敬う気持ちを、まずは行動や態度に示すのが大切なのでしょう。

 お釈迦様も前世において、雪山童子(せっせんどうじ)として自らの身を羅刹に与えたり(「捨身羅刹(しゃしんらせつ)」の物語)、兎としての身体を食料として捧げたり(「月の兎」伝説)といった「捨身の行」を行いました(『法の水茎』8・72)。施身童子(せしんどうじ)とも称されるお釈迦様の、身体をなげうってまでの修行には及ばなくても、周りのために身を尽くすのは、仏教の基本となる行いです。

 ちなみに先ほどのお経には、こうした「身施」の実践によって、遠い未来には「尼拘陀樹(にくだじゅ)」(「尼拘律樹(にくりつじゅ)」「バニヤン」とも)という樹木のように敬われるようになるという果報(良い報い)も説かれています。この木は、地中で枝葉を整えること百年、地上に芽を出すと一日にして生じ、その高さは頂が見えないほどの百丈(約300メートル)にも及ぶそうです。仏教では、お釈迦様が悟りを開いた菩提樹(ぼだいじゅ)とともに、尊い道場樹として崇められる植物です。

 「身施」をめぐる話に、次のようなものがあります。

 今は昔、持統天皇(じとうてんのう)(645~703)という女帝の御代に、中納言大神(ちゅうなごんおおみわの)高市麿(たけちまろ)(657~706)という人がいました。生まれつき心が素直で、あらゆる智恵を持っていました。漢詩文を学び、いろいろな学芸にも通じていたため、天皇はこの高市麿に国の仕事を任せました。

 ある年のこと、国中が大干ばつに襲われました。すると高市麿は、自分の田の水の取り入れ口をふさいで、一般民衆の田に水を入れさせました。水を人に施したので、自分の田は干からびてしまいました。

 高市麿には、自分を捨てて他を哀れむ心がありました。これにより天の神は感心し、龍神に雨を降らせました。真心が天に届いて、お助けくださったのです。

 故に、人は正しい心を持つべきです。決して道に外れた心を抱いてはいけません。

       (『今昔物語集』)

 仏教では、他人のために尽くすことを「利他(りた)」と言います。自分の「身を捨て」てでも周りの幸せを願った高市麿の「身施」は、まさに「利他行(りたぎょう)」そのものと言えるでしょう。そしてそれは、心の奥底にある「正直さ」から生み出されたとき、さらに力強い効力を生み出すのです。

  悲心を一人に施さば

  功徳大なること地の如し

  己が為に一切に施さば

  報を得ること芥子の如し

      (『大丈夫論』)

(慈悲の心で一人にでも施せば、その恵みは大地のように大きい。自分のためだけに施せば、その報いは芥子粒のように小さい)

 桜の花の優美さは、大地の下に、しっかりと根を這わせているからこそ生まれるのです。私たち人間も、目には見えない内奥の「気根(きこん)」(仏さまの教えを発揮する力)を養いつつ、自らの花を開かせていきましょう。


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最後までお読みくださりありがとうございました。