坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

「道」のお話⑦~ 夏山の参詣路、和歌によって結ばれた心の道のり ~ 「法の水茎」107

近畿東海地方が一足お先に梅雨入りしました。
関東も間もなくですね。例年よりも季節が早く進んでいるようです。

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牡丹の季節も終わりを迎えようとしています。
これからは雨の似合う植物がいっせいに咲き出してくるでしょう。

さて、今月の『高尾山報』「法の水茎」も「道」がテーマです。和歌と参詣・巡礼との結びつきについて書いてみました。お読みいただけますと幸いです。

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「法の水茎」107(2021年5月号)




 

  時鳥聞く折にこそ夏山の
   青葉は花に劣らざりけれ
    (西行『山家集』六家集本)

(時鳥(ほととぎす)の鳴き声が響き渡る折こそ、夏山の青葉は桜の花に引けを取らないよ)

 水を張った早苗田を見下ろすように、鯉のぼりが悠々と泳いでいます。遠くの景色に目を移せば、春は桜によって霞んでいた山並も、今はくっきりと青空に照り輝いています。

 新緑が眩しい野山に分け入れば、鳥たちも元気よく囀っているでしょう。古くから初夏の訪れを告げる鳥として親しまれてきた時鳥の声も、どこからか聞こえてくるかもしれません。春に桜を愛でた道を今一度歩きながら、生命の息吹を全身で感じてみてはいかがでしょうか。

  高野山仏法僧の声をこそ
   待つべき空に鳴く時鳥
   (三条西実隆『高野参詣日記』)

(高野山(こうやさん)で仏法僧(ぶっぽうそう)の声を待っていると、空に聞こえてくる時鳥の声よ)

 この歌は、室町時代後期の歌人、三条西実隆(1455~1537)が、和歌山県にある真言宗の聖地、高野山金剛峯寺にお参りした際に詠んだものです。「仏法僧」は、仏教で重んじる「三宝(さんぼう)」(仏・法・僧)の教えでもあり、日本に5月末頃に飛来する「仏法僧」という鳥の名前でもあります。仏法僧鳥は「三宝鳥」という別名も持ち、弘法大師空海(774~835)の『性霊集』に「後夜に仏法僧の鳥を聞く」(暁に仏法僧の声を聞く)とも見える霊鳥です。

 ちなみに、仏法僧鳥は美しい鳥ですが「ぶっぽうそう」とは鳴かないそうです。時は移り昭和10年(1935)に至って、かわいらしく「ぶっぽうそう」と鳴く声の主が、実はフクロウ科のコノハズクと判明しました。それ以来、古来より信じられてきた瑠璃色の仏法僧鳥を「姿の仏法僧」、コノハズクを「声の仏法僧」と呼び分けるようになったそうです。

 「夏山」という言葉には「夏の季節に、高い山頂などにある神社・仏閣に参詣する」という意味もあります。参詣は「神仏にお参りに行くこと」で、「物詣で」とも言い、「参拝」「巡礼」と似た意味合いです。

 参詣には、和歌が付きものです。それは、御詠歌(ごえいか)(巡拝歌(じゅんぱいか))といった信仰と深く結び付くものから、参詣の途中で立ち寄った名所旧跡を詠ったものまで様々です。少し細かくなりますが、神仏に歌を奉る法楽和歌(ほうらくわか)(奉納和歌(ほうのうわか))や、神社仏閣に参籠(さんろう)(お籠(こ)もり)中に神仏が夢枕に立ち顕れるという託宣歌(たくせんか)(神仏歌)、仏さまとの縁(仏縁)を結ぶための結縁歌(けちえんか)(勧進歌(かんじんか))などもあります。仏さまの心を表した法門歌(ほうもんか)(仏の教えを込めた歌)や和讃(わさん)(仏さまを和語で讃嘆した歌)なども広く仏教に関わる歌(釈教歌(しゃっきょうか))として捉えられるでしょう。信仰と和歌との結び付きは、時代による流行はあっても、今日まで脈々と受け継がれています。

 先ほどの「高野山」の歌を詠んだ三条西実隆は、夏の高野山に登る途中、新義真言宗の総本山である根来寺にも立ち寄っています。その時の様子は次のように記されています。

 根来に到着すると、お寺の僧侶十数人が迎えにやって来ました。旅の疲れもあったので、輿(乗り物)に乗って大門の中に入りました。

 寺に着くと、さっそくいろいろなお堂を参拝しました。根来寺は想像以上に見所が多く、本堂伝法院の御前では思いを巡らして、

  高野山別れて来しもことさらに
   法を伝へむ代々の為かも
(高野山から別れてきてこの地にお寺ができたのも、あえてそれぞれの世に仏法を伝えるためなのだ)

 次に、錐(きり)もみ不動明王を拝見して、

  動きなき身を分けてける姿ぞと
   血の涙をも流してぞ見る
(不動の強固なお身体を(覚鑁上人(かくばんしょうにん)の身代わりとして)斬られてしまったお姿と、深い悲しみの涙を流して拝することよ)

 覚鑁上人の『続後拾遺集』に入った「夢の中は夢も現も夢なれば覚めなば夢も現とをしれ」(無常の世の中では、夢も現実も夢である。悟りを得て目覚めたならば、夢も真実であったと知りなさい)という詠歌が思い出されて、

  いつ覚めん現も知らず七十の
   今日だに同じ夢の世中
(いつになったら夢から目覚めるのだろう。真実も知らずに七十歳になった今日でさえ、まだ同じ夢の中にいるよ)
       (『高野参詣日記』)

 実隆は、行く先々で歌を詠じました。根来寺では、本堂や興教大師覚鑁(1095~1143)の身代わりとなったという伝説を持つ「錐もみ不動明王」の前で歌を詠み、覚鑁の歌を手本としながら、夢のような無常の世に生きる自分自身の齢も重ねています。実隆の高野山参詣は、信仰の旅とともに、先人の恩徳を偲びながら、自分と向き合う旅でもあったのです。

 実隆が旅をしてから約十年後のこと。息子である三条西公条(1487~1563)もまた高野山に詣でました。その旅路を記した『吉野詣の記』には、やはり旅の道々で詠んだ和歌が書き留められ、高野山が近づくと父を夢に見、父の忌日に高野山をお参りしたことも記されています。

 公条は『吉野詣の記』の末尾を、

  老の坂上り下るもこのたびを
   限りと思ふに深き山道
(老いた身で上り下りしてきたが、これが最後と思うと、心に深く残る山道の旅だったよ)
 現世の望みも、来世の縁も、この旅で満足するものとなりました。
       (『吉野詣の記』)

と締めくくっています。この歌はかつて父実隆が高野山中で詠んだ、

  老の坂苦しきをこそ凌ぎしに
   など雨風の身を砕くらん
        (『高野参詣日記』)
(老いた身で苦しみを乗り越えてきたのに、どうしてさらに雨風がこの身に打ち付けるのだろう)

という歌に思いを馳せてのものでしょう。時を隔てた親子の参詣道は、和歌によって結ばれた「心の道のり」として生き続けていたのです。


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最後までお読みくださりありがとうございました。