坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「六道輪廻」のお話~お地蔵様を信じて、真っ先に駆け付ける~「法の水茎」65

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アジサイも咲いてきました。

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紫陽花(アジサイ)

雨に濡れれば、緑もいっそう鮮やかになるでしょう。
梅雨時の黄昏には、蛍が飛び交うかもしれません。


今回の文章は、六道をテーマとして、お地蔵様の救いについて書いてみたものです。

    ※      ※

「法の水茎」65(2017年11月記)





 「秋」は何色でしょうか。季節を表す七十二候に「楓蔦黄」という名称があるように、辺りを見渡せば、色づいた楓や蔦が、日本列島を鮮やかに染め上げています。秋と言えば、まずは赤や黄色の秋化粧が思い浮かびます。

  白露の 色は一つを いかにして
   秋の木の葉を 千々に染むらむ
        (『古今集』敏行朝臣)
(光って見える露は白一色なのに、どのようにして秋の木の葉を、色々に染めるのだろう)

 秋の異称に「白秋(はくしゅう)」があります。中国の五行思想で、白色を秋に配置するところから名付けられました。この歌に見える「白露」もまた、秋の気配が感じられるものです。古の人々は、秋の冷たい白露が、木々を色とりどりに染めていると感じていました。

 やがて白露に紅葉が映り込めば、光の角度によって、白は赤や黄色に照り輝くかもしれません。それはまるで「玉虫色」のような煌めきです。

  散らねども かねてぞ惜しき 紅葉は
   今は限りの 色と見つれば
            (『古今集』不知)
(紅葉はまだ散り始めないけれど、散る前から心残りに思うよ。もはやこれ限りの輝いた姿と見えるから)

 秋の草木も、少しずつ冬の装いへと姿を変えていきます。紅葉も、いつかは散るからこそ美しいのでしょう。落葉を「惜しむ」心には、「大切に思う」「慈しむ」(愛しむ)気持ちも込められているように感じます。

 人も同様に、いつかは終わりを迎えます。兼好法師(1283頃~1352以後)が「世は定めなきこそ、いみじけれ」(この世は移り変わるからこそ素晴らしい)と語っているように(『徒然草』第7段)、人の命も終わりがあるからこそ価値があるのかもしれません。では、季節は春夏秋冬を巡りますが、人はどこへと向かうのでしょう。

 仏教に「六道輪廻」という言葉があります。「六道」とは、「地獄(じごく)」「餓鬼(がき)」「畜生(ちくしょう)」「修羅(しゅら)」「人(にん)」「天(てん)」という6つの迷界を指し、「輪廻(りんね)」とは、ぐるぐると生死を繰り返すことを意味します。人は、その行いによって次なる世界へ旅立つと言われます。

 ですが私たちは、どの世を通って生まれて来たのかも、次の世で六道に生まれ変わることになるのかも分かりません。

 平安時代の説話集に、死後の出来事を語った次のような話があります。

 今となっては昔のこと。奈良の東大寺に蔵満(ぞうまん)という一人の僧侶がいました。

 ある時、人相見と出会い、占ってもらったところ、「あなたはとても短命だ。長生きしたければ、菩提心(ぼだいしん)(仏道修行を行おうとする心)を起こしなさい」と言われます。

 これを聞いた蔵満は、嘆き悲しみ、今まで以上の苦行に励みました。それは、毎日行道して一心にお経を読み、日課として地蔵菩薩の宝号(ほうごう)(名前)を、百八遍お唱えするというものでした。

 ところが、蔵満が30歳になったとき、突如として病にかかり、あっと言う間に死んでしまいます。すると、目の前に青い服を着た冥途の使者が2、3人やって来て、怒りの形相で蔵満を捕らえたのでした。

 蔵満は大声で叫びました。「私は日頃から地蔵菩薩を信じている者です」と。しかし役人は「証拠が無いではないか」と言って、詰め寄ります。

 その時、一人の小僧が突然に現れなさりました。その姿は、厳かで麗しく光を放っています。同じような5、6人の小僧もおられ、さらにまた、30数人の小僧が左右に列なっています。気高く穏やかに、皆合掌をしておいででした。

 上席の菩薩が蔵満に語りかけました。「私は、そなたが毎日念じている地蔵菩薩である。いつも、そなたを見守っているのだ。此度は前世の因縁によってここに召されたが、すぐに人間界に戻りなさい。これからも修行を続けて、もう二度とここに来てはならぬぞ」と言って聞かせると、再び生き返ったのでした。
              (『今昔物語集』)

 死後の蔵満の前に立ち現れたのは、「六道能化(ろくどうのうけ)」(六道の人々を救う者)とも称される地蔵菩薩でした。5、6人の小僧とは、お墓の入り口などに居並ぶ「六地蔵(ろくじぞう)」だったのでしょうか。さらには多くの小僧さんたちも付き随っています。日頃から地蔵菩薩を信じていた蔵満だったからこそ、その叫び声を真っ先に聞きつけ、大勢で駆け付けてきてくれたものと思われます。

  迷ひ行く 深き闇路の 渡り川
   誠の瀬には 君のみぞ立つ
        (『新拾遺集』慶政上人)
(さ迷い歩く、死出の旅路の三途川。生死の場には、お地蔵様だけがお立ちになる)

 お地蔵様は、いつも私たちを見守ってくださっているのでしょう。そんなことを考えていたら、路傍に佇むお地蔵様に、秋の紅葉に負けないくらいの、真っ赤な頭巾と前掛けをお付けしたくなりました。

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最後までお読みくださりありがとうございました。