坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

弘法大師空海のお話⑧ ~ 三鈷の松、密教の根本道場としての高野山金剛峯寺 ~ 「法の水茎」129


気温の上昇とともに、スイセンもぐんぐん伸びてきました。


いろいろな草花が日に日に咲き出してきました。
昼はウグイスや山鳩、夜はフクロウの声も聞こえてきて、鳥たちも春の訪れを待ち望んでいたかのようです。

池の鯉も泳ぎ始めました。


昨年、アオサギにすべて食べられてしまったと思っていた白いプラチナも、数匹生き残っていたようです。元気に餌を食べていました。何とか成長してほしいですね。

さて今月の「法の水茎」も「弘法大師空海のお話」です。前回に続いて、唐(中国)から投じた三鈷杵(仏具)を探し求める旅について書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」129(2023年3月号)


 弥生(3月)を迎えて、春の息吹が満ち満ちてきました。陰暦3月の異名には、「弥生」の他にも「花月」「桜月」「花見月」など草花の芽吹きを感じさせる名前が並びます。

 花が咲いたという知らせを「花信(かしん)」と言い、春の初めに花の開花を告げる風を「花信風(かしんふう)」と呼びます。

  心あらば問はましものを梅が香に

   たが里よりかにほひ来つらん

     (『新古今集』源俊頼朝臣)

(もしも心があるなら、梅の香に聞いてみたいよ。いったいあなたは誰のいる里から匂って来たのかと)

 かわいらしい梅の花は、うららかな光風が運んでくるのでしょうか。それは芳しい香りとともに、忘れかけていた懐かしい記憶も蘇らせてくれるようです。

  色香をば思ひも入れず梅の花

   常ならぬ世によそへてぞ見る

    (『新古今集』花山院御製)

(私は色香に深く心を留めたりはしない。梅の花の咲き散る姿に、この世の無常を重ね合わせて眺めているよ)

 この歌にある「常ならぬ世」とは「無常の世」(常に生まれたり滅びたりして変化しているこの世)を表しています。人の命と同じように、咲いた花は惜しまれつつも必ず散ります。「春一番」のような南からの暖かな強風に花びらが舞っても、それは自然のありのままの姿として、しっかりと目に焼きつけておきたいと思います。

 さて今回も、弘法大師空海(774~835)の生涯を辿ってみましょう。前回は、若き日に中国から投じた三鈷杵(さんこしょ)の在り処を求めて旅をしていたお大師さまが、その場所を知っているという犬を連れた猟師と出会った箇所までを読みました。

 ところで、「三鈷杵」という密教で用いられる仏具をご覧になったことはあるでしょうか。「三鈷杵」は杵(きね)の形をとっていて、「金剛杵(こんごうしょ)」と呼ばれるものの一種です。両端の爪状の部分(鈷(こ))の数によって名称が変わり、三つ股に分かれているものを「三鈷」、五つに分かれているものを「五鈷(ごこ)」、分かれずに尖っているものを「独鈷(とっこ)」と言います。お寺をお参りした際に、お顔をやや右に向けて座られているお大師さまの御影(みえい)(肖像)を拝まれたことのある方もいらっしゃるかと思いますが、そのお姿の中で右手首をひねったようにお持ちになられているのが「金剛杵」です。

 ちなみに、独鈷(とっこ)・三鈷(さんこ)・五鈷(ごこ)については、例えば江戸時代の書物に「物を成就するには五股を用ひ、加持するには三股を用ひ、念誦には独股を用るなり」(『密門雑抄』)と見えます。「金剛杵」はさまざまに用いられ、そのときどきに応じた使い分けがなされています。

 お大師さまの伝記に話を戻しましょう。『今昔物語集』の空海伝は次のように続きます。

 お大師さまは、そこから大和国(現在の奈良県)と紀伊国(現在の和歌山県)の国境にある大きな川のほとりに泊まられました。するとそこで一人の山人に会いました。お大師さまが、唐(中国)から投げた三鈷の場所を問われると、山人は「ここから南に平らな湿原があります。そこがお尋ねの聖地です」と答えたのでした。

 翌朝、山人はお大師さまと連れ立ってその場を目指しました。山人は道すがら「私はこの山の王です。すみやかにこの領地をあなたに差し上げましょう」と囁きました。

 山の中に百町(約10キロメートル)ほど入ると、正しく鉢を伏せたような形で、周囲には八つの峰が聳え立ち、言いようがないほど大木の檜(ひのき)が、竹のように並び生えている場所に出ました。すると、その中の一本の檜の中に大きく枝分かれしたところがあり、そこに三鈷が突き刺さっていたのでした。

 これを見ると、限りなく喜び感激なさって「ここが禅定の霊窟(心安まる霊妙な地)なのだ」と思われました。そこで「あなた(山人)はどなたですか」と尋ねると、「私は丹生明神(にうみょうじん)と申します」と答えます。今の天野神社(あまのじんじゃ)はこの方をお祀りしています。さらに「あの犬飼猟師は高野明神(こうやみょうじん)と申します」と語ると消え失せてしまいました。

      (『今昔物語集』)

 唐の岸から投げた「飛行(ひぎょう)の三鈷(さんこ)」は、はるばる海を渡って高野山に留まっていました。お大師さまを導かれた二神(高野明神と丹生明神)も訪ねてこられる日を待ち望まれていたでしょう。神が治めていた霊地は、密教の根本道場(修行の中心となる聖地)としての歴史を歩み始めたのです。

 なお、三鈷が刺さっていた「檜」は、他の伝承では「松」として語られています。

  高野山はるかにかけしいにしへの

   三鈷の松に有明の月

       (正広『松下集』)

(高野山へとはるばる飛び来たった、過ぎし日の三鈷の松に、今もこぼれ射してくる有明の月の光よ)

 高野山上の「三鈷の松」は、当初から数えて7代目とか。多くの人々の思いを受けとめてきた常緑の松には、お大師さまの篤い祈りが今も変わらず込められているのでしょう。



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最後までお読みくださりありがとうございました。