坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「無常」のお話⑥~「心の葉っぱ」を輝かせて、「飛花落葉」を感じて~「法の水茎」77

アジサイには雨が似合います。

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紫陽花(アジサイ)

アジサイの花言葉の一つに「無常(むじょう)」があります。色が「七変化」するところから名づけられたのでしょう。


今回の文章は、「無常」をテーマとして、「飛花落葉」を感じることの大切さについて書いたものです。

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「法の水茎」77(2018年11月記)





  さまざまに 錦ありける 深山かな
   花見し峰を 時雨染めつつ
           (西行『山家集』)
(色とりどりに錦織りなすお山だなあ。春は桜の花を見た峰々を、秋の時雨(しぐれ)が染めているよ)

 「紅葉(もみじ)」という呼び方は、絹を紅で染色した薄手の絹織物「紅絹(もみ)」から名付けられたとも言われています。「紅絹(もみ)」は、鬱金(うこん)で黄色に下染めした上に紅をかけて、揉(も)むことによって紅葉色(もみじいろ)に染め上げるそうです。赤や黄に色づく木の葉は、冷たく降りかかる時雨が染めなしたものでしょうか。春は桜を愛でた薄紅色のお山も、今は艶やかな緋色(ひいろ)に変わっています。

  時雨ゆく 片野の原の 紅葉狩
   頼むかげなく 吹く嵐かな
         (『夫木抄』源俊頼)
(時雨が降り過ぎる片野の原に紅葉狩に出かけてみると、頼みとする物陰もなく、嵐が吹き荒んでいることよ)

 秋の野山を散策して、紅葉の美しさを観賞することを「紅葉狩(もみじがり)」と言います。「紅葉狩」は、古く『万葉集』に見え、江戸時代からは民間にも広まっていきました。

 この「時雨ゆく」の歌では、一雨ごとに色濃くなった紅葉が、激しい嵐に散り急いでいる様子が詠われています。「時雨」は「晩秋から初冬にかけて降ったり止んだりする小雨」ですが、そこから比喩的に「涙ぐむ」という意味にも使われます。この歌には、「紅葉狩」で踏みしめた「落葉」と、過ぎゆく秋を惜しむ「落涙」とが重ね合わされているように感じます。

 ちなみに、春の梅や桜のお花見、秋の紅葉狩や茸狩などの行楽に出かけることを「遊山(ゆさん)」と言います。今では「気晴らしの外出」程度に使われる言葉ですが、もともとは禅宗で用いられる仏教語で、「晴れ晴れとした心境で、山水の見事な景観を楽しみ過ごす」という教えでもあります。物静かで奥深い秋の錦に抱かれれば、自然と清らかな心持ちになっているでしょう。

 秋の景色をめぐっては、次のような話があります。

 今は昔。藤原惟規(のぶのり)という男がいました。遠く離れた父親に会いに行くために、京の都から越後国に向かっていましたが、旅の途中で病にかかり、国に着いた時には危篤状態に陥ってしまいました。

 息子に会える日を楽しみに待っていた父は、このような変わり果てた姿での再会に嘆き悲しみます。あらゆる手を尽くして看病しましたが一向に治りません。

 どうしようもなくなった父は、「もうこの世のことを思っても仕方ない。来世を念じよう」と、お経を唱えてもらうために、智恵のある高僧を枕元に呼びました。

 僧侶は、男の耳元で囁きました。「地獄の苦しみが目前に迫ってきたぞ。死ねば中有(ちゅうう)(次の生を受けるまでの間)と言って、遙かな広野をただ一人で歩まねばならない。その心細さ、耐えがたさを想像するが良い」と。

 すると男は、息も絶え絶えに尋ねます。「その中有の旅路では、嵐に散る紅葉や、風になびくススキの花のもとで鳴く松虫などの声は聞こえないのでしょうか」と。これを聞いた僧は声を荒げ、「何のためにそのようなことを聞くのだ」と言うと、男は「もしそうなら、それらを見ながら心を慰めようと思いまして」と、とぎれとぎれに話すので、僧は「まったく気が狂っている」と言って、逃げ去ってしまいました。
              (『今昔物語集』)

 男が語った秋景色に、なぜ僧は呆れ、立ち去ってしまったのでしょうか。その理由は語られていませんが、僧は、あえて地獄の苦や、死出の旅路の寂しさを伝えることによって、男にこの世に再び立ち返ってほしいと願ったのでしょう。父親もそれを期待して、僧に最後の望みを託したのかもしれません。

 男はこの世で秋の風情に感動していました。それはそれで素晴らしいのですが、そこに「飛花落葉(ひからくよう)」を感じることは無かったようです。「飛花落葉」は「春の花もやがて散り、青葉も秋になれば色が変わって散る」ように「儚い世の中」を表す言葉です。これまで幾度となく「無常(むじょう)の道理」を感じる縁があったにもかかわらず、男は見た目の美しさ、不表面的な雅びさにのみとらわれて、本質的なものを理解してはいなかったのでしょう。僧はそれを瞬時に見抜いたが故に退出したのかもしれません。

  昨日と思へば
  今日に過ぎ、
  春と思へば
  秋になり、
  花と思へば紅葉に
  移ろふさまなどは、
  飛花落葉の観念も
  なからんや
   (二条良基『筑波問答』)
(昨日と思えば今日に過ぎゆき、春と思っているといつの間にか秋になり、桜を思えば紅葉に変わっている様子などは、「飛花落葉」の教えを心静かに観察することになるのでしょう)

 人の気立てや思い遣りを「心葉(しんよう)」と呼びます。瑞々しい新芽が若葉となり、青葉を経てやがて黄色や紅色に深まるように、「心の葉っぱ」も、四季折々に美しく光り輝きたいと思います。

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最後までお読みくださりありがとうございました。