坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「無常」のお話⑤~不完全な美しさ、『徒然草』にみる「心眼」~「法の水茎」76

池の上にヤマボウシの花が咲いています。

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ヤマボウシ(山法師)

ヤマボウシ(山法師)は、白い部分を僧兵の頭巾に見立てて名づけられました。


今回の文章は、「無常」をテーマとして、『徒然草』に見る「不完全な美しさ」について書いたものです。

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「法の水茎」76(2018年10月記)





 庭先を眺めれば、涼やかな風に乗ってトンボが飛び交い、秋の夜長に耳を澄ませば、鈴を転がすような虫の声が間近に響いてきます。私が住まいする山里の集落にも、いよいよ秋がやって来ました。

 お彼岸中の中秋の名月(八月十五夜)は、ご覧になりましたでしょうか。雲に隠れてしまって、お姿を拝めなかった方も、いらっしゃるかもしれません。でも、ご安心ください。間もなく、九月十三夜が巡ってきます(今年は10月21日)。

 十三夜は、日本独自の風習と言われます。十五夜に対して「後の月」と称し、お月様に大豆や栗などをお供えすることから「豆名月」「栗名月」とも呼ばれます。ススキとともに、お団子やお餅、旬の里芋や柿なども用意すれば、お月見の準備は万端です。ちなみに、十三夜のお団子は13個(十五夜は15個)、十五夜のお団子には餡を使うのに対して、十三夜には黄粉を用いる地方もあるようです。

  雲消えし 秋の半の 空よりも
   月は今宵ぞ 名に負へりける
         (西行『山家集』)
(雲のない八月十五夜の空よりも、今夜の十三夜の方がお月見にふさわしい名月であったよ)

 この和歌では「秋の半の空」(十五夜)と「今宵の月」(十三夜)とが対比され、十五夜の満月よりも、十三夜のほうが趣深いと詠っています。歌の中に「名に負う」(名高い)と見えるように、十三夜を愛でる風習は、すでに平安時代には広まっていたのでしょう。「十五夜に月なし、十三夜に曇りなし」とも言われます。すっきりしないことの多い十五夜よりも、晴れ渡る十三夜に秋を感じていたのかもしれません。

 今、秋を迎えて過ぎ去った日々を思い返せば、この夏は地震に大雨、猛暑に台風と、多くの自然災害に見舞われました。私たちは、全てが絶えまなく変化し続ける「無常(むじょう)」の世に生きているとはいえ、今年は無常というよりも「異常」の連続だったようです。

 ところで、「無常」を訓読すると「つねなし」(常無し)となり、「変わらないものは無い」(変わりやすい)という意味になります。では、「異常」はどうでしょうか。江戸時代中期の中国語学習書『唐話纂要』には、異常は「ヨノツネナラズ」(世の常ならず)と記されています。いつもの姿ではなく、「普段とは違ってしまった」ことに重きが置かれた言葉でしょう。日々の生活の中で、無常を感じることは心に潤いを与えてくれますが、異常な出来事を目の当たりにすることは、少しでも減ってほしいと念じます。

 さて、先ほどの「雲消えし」の歌では、天候に関わりなく、晴夜の十五夜よりも、十三夜のほうが素晴らしいと詠っていました。満月の十五夜に対して、十三夜は月の左側が少し欠けています。どちらかと言えば、円かなお月様の方が良いようにも思われるのですが、なぜ欠けた月に心惹かれるのでしょう。

 兼好法師(1283頃~1352以後)は、『徒然草』の中で次のように語っています。

 桜は満開だけを、月は満月だけを鑑賞すべきだろうか。いや、それだけが全てではない。例えば、月を隠してしまっている雨を見つめながら月を恋しく思ったり、狭い部屋に閉じこもって、過ぎゆく春の行方を想像しながら過ごすのも味わい深い。花が咲き始めた頃の梢や、散って花びらが敷いている庭などにも見所がある。
            (『徒然草』137段)

 兼好は、満開や満月といった完全・完璧なものだけではない、「不完全な美しさ」にも目を向けました。頂点の前後にも美しさがあり、物事の始めから終わりまでの全てに価値があるという、言わば「始中終(しちゅうじゅう)の美」とも言うべきものを説いているように思われます。

 兼好はさらに続けます。

 千里の果てまで輝く満月を眺めるよりも、夜明け近くになってやっと待っていた月が見えた時のほうが、月の青さが心に深く沁み渡ってくる。杉の木の梢に見える月光や、雨雲に隠れている月なども、この上なく素晴らしい。椎柴(しいしば)・白樫(しらかし)などの木の葉に光がきらめく時は身に沁みて、この風情を分かち合える友達が近くにいたらと思い、都が恋しくなってくる。

 いったい、月や花は、目だけで見るものなのだろうか。春は家を出なくても、月は寝室の中でも想像することができる。心で思い描くのも楽しくて味わいがある。
           (『徒然草』137段)

 兼好は、肉眼だけで見るのではなく、心眼(しんがん)で観ることの大切さを示しました。不完全なものを含む「無常の美」に、自らの鍛え上げられた心眼が加われば、この世はどんなにか美しく輝くでしょう。

  思ひ置く ことぞこの世に 残りける
   見ざらむ後の 秋の夜の月
           (『兼好法師家集』)
(気にかかることが、この世に残ってしまったなあ。自分が死んだ後に、見ることができなくなる秋の夜の月のことを思うと)

 眼前の月は、満ち欠けを繰り返しながら、この世を照らし続けてきました。きっと私が知り得ない後の世の人々にも、同じように月の光は降り注ぐでしょう。何十年、何百年後の秋の景色に思いを馳せながら、秋の夜長を過ごしてみます。

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最後までお読みくださりありがとうございました。