坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「地獄道」のお話~灼熱の奈落に、清らかな風~「法の水茎」66

池の睡蓮が咲きました。

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睡蓮

蓮は晩夏の季語なので、7月くらいからかと思っていましたが…まだ5月ですね。
今年はとくに早いのでしょうか。


今回の文章は、六道の「地獄道」をテーマとして、奈落の底の有様について書いたものです。

    ※      ※

「法の水茎」66(2017年12月記)





  ハラハラと舞い散る木の葉のように、いつの間にか心が急かれる折節を迎えました。「昨日の淵は今日の瀬」。毎年のことながら「年の瀬」の流れのはやさを実感します。

 皆様にとって、平成29年はどのような1年だったでしょうか。立ち止まって後ろを振り返れば、嬉しかったことや悲しかったことなど、さまざまな思い出が浮かんでは消えてゆきます。

  大空の 月の光し 清ければ
   影見し水ぞ まづ凍りける
         (『古今集』不知)
(大空の冬の月が冴えて清らかなので、その月光を浴びた池の水が、真っ先に凍ったよ)

 冬の夜空を見上げれば、澄み切った月が照り輝いているでしょう。地上に目を移せば、月に応えるかのように、池の水も凍り始めています。それは秋に月影を映し続けていた水だからこそ、冬の装いへと変わりゆく月の姿に、真っ先に気付いているのでしょう。仏教語に、この世の無常(移り変わり)を表す「水月(すいがつ)」という言葉がありますが、冬の水面に宿る「凍った水月(すいげつ)」を見ていると、月をもう逃がすまいとする水の思いが伝わってくるようです。

  新しき 年の光に 向かふかな
   師走の月の 有明の空
       (三条西実隆『雪玉集』)
(新年の光へと向かうのだなぁ。師走の月を残して明け行く空は)

 12月の異名である「師走(しわす)」の由来には、師僧が東西を走る月(師馳(しは)す)の他にも、年が果てる(年果つ)や、春夏秋冬の四季の果てる月(四極(しはつ))からとする説などがあります。慌ただしい師走を過ぎれば、いよいよまた新たな季節の到来です。来年は、今年以上に良い年にしたいものです。

 と、このようなことを書くと、どこからともなく笑い声が聞こえてきそうです。「来年の事を言えば鬼が笑う」。本当は明日をも知れぬはずなのに、人はつい将来を思い浮かべてしまいます。そんな様子を見て、いつもは恐い顔をしている鬼たちも、笑い出してしまうのでしょう。大声で笑うことを「鬼笑い」とか「天狗笑い」と言いますが、この時期は至る所から、カラカラと高笑いが轟いてきそうです。

 ところで、「鬼」という言葉は、『古今集』「仮名序」に「目に見えぬ鬼神」とあるように、もともとは目に見えないもの(隠(おぬ))を意味しました。それがやがて仏教や陰陽道(おんみょうどう)と結び付き、地獄で亡者を叱り責める鬼(獄卒)となっていったと言われています。では、この鬼が住むという「地獄」とはどのような場所なのでしょう。

 「地獄」は、前号で取り上げた六道(6つの迷界)の最下層に位置しています。別名を「奈落」とも言い、「奈落の底」という言い方があるように、まさに「どん底」に当たります。

 地獄の有様については、かつて「高尾山報」(606号)の中で、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)に嫉妬して地獄に堕ちた智光(ちこう)という僧侶を取り上げましたが、その他にも、例えば次のような話が伝わっています。

 今となっては昔のこと。蓮円(れんえん)という僧がいました。その母は邪見(間違った考え)が深く、因果応報(日々の行いの善悪によって、その報いがあること)を知りませんでした。すると命が終わろうとするときに悪相が現れ、三悪道(地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう))に堕(お)ちて亡くなりました。

 蓮円は嘆き悲しみます。何とかして母親の後世(来世)を弔おうと思い、数年の間、全国をくまなく歩いて、不軽行(ふきょうぎょう)(全てを尊敬し、合掌して、つつしみ敬うこと)を行ったのでした。

 その後、蓮円は夢の中で、鉄の城を見ました。不思議に思っていると、そこに恐ろしい顔をした鬼が現れ、「ここは地獄だ。我は獄卒だ」と言います。そこで「母に会わせてほしい」と頼むと、鬼は城の戸を開け、猛烈な焔が吹き荒ぶ中から、あられもない酷い姿の母親を連れてきたのでした。

 蓮円が母にすがって泣くと、母もまた泣くに泣いて、こう言いました。「私は罪深く、地獄で言いようのない苦しみを受けてきた。だが、お前が私のために祈ってくれたお陰で、地獄を離れ、忉利天(とうりてん)に生まれることになったのよ」と。

 蓮円は夢から覚めると、心が安らいで嬉しい気持ちになっていました。
           (『今昔物語集』)

 蓮円は、母のために合掌し続けました。その思いは、清らかな風となって、灼熱の奈落の底にも届いていたのでしょう。親子が再会した際に、母の眼からこぼれ落ちた一筋の涙は、息子への感謝の念だったに違いありません。

  香は禅心(ぜんしん)より出でて
  火より出づることなし
  花は合掌に開けて
  春に開けず
       (菅原道真『菅家文草』)

(良い香りは火から出るのではなく、乱れない心から生じる。花は春になって咲くだけではなく、合掌によって掌の花が開く)

 誰かのために手を合わせれば、冬の庭にも心の花がほころぶでしょうか。芳しい春の香華(こうげ)をいち早く身にまといつつ、師走の道を歩んでいきたいと思います。

     ※      ※

 

最後までお読みくださりありがとうございました。