庭を歩いていても、やはり睡蓮には目がとまります。
まるで絵に描いたような姿です。1人で見るのが、もったいない気分になります。
今回の文章は、「無常」をテーマとして、「いろは歌」に込められた「無常の心」について書いたものです。
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「法の水茎」73(2018年7月記)
今年の日本列島は、例年よりも梅雨明けが早かったようです。7月7日の七夕には、織姫と彦星は無事に巡り逢えたでしょうか。あるいは曇天の夜空から、涙の「催涙雨(さいるいう)」がポロポロと溢れ落ちてきたでしょうか。
銀河澄朗(ちょうろう)たり
素秋(そしゅう)の天
また見る林園に
白露の円かなるを
(『和漢朗詠集』源順)
(秋の夜空が冴えわたって、天の川が輝いている。地上の木々の茂った庭園には、玉のような白露が光っている)
「素秋(そしゅう)」という秋の異称が見えるところに、現代の私たちは少し違和感を覚えるかもしれません。もともと七夕は、月の満ち欠けを基準にした暦(旧暦)に合わせて行われ、お盆(旧暦の7月15日前後)とも深く関わる年中行事でした。ほとんどが立秋を過ぎた頃に当たることから、俳句などでは、七夕は秋の季語として用いられています。
この漢詩にある「素秋」の「素」は「白」を表し、「白露」とともに白の色彩が詠まれています。白は、中国の五行説(ごぎょうせつ)で秋に配されることから「白秋(はくしゅう)」という語も生まれました。ちなみに、旧暦の七夕の夜は、例年上弦の月となっていて、月の光の影響を受けることが少ないそうです。庭の秋草に置く玉のような夜露には、きっと無数の天の川が映り込んでいたでしょう。星空と白露の煌めきに包まれた光景が想像されます。
たとえ今月の七夕が雨模様でも、月遅れの七夕(8月7日の立秋の日)や、旧暦の七夕の日(今年は8月17日)に契りを交わすチャンスがあるかもしれません。ただその再会も、たった一日の逢瀬として、あっと言う間に過ぎ去っていきます。その限られた時の中で、2人は何を語らうのでしょう。
「歳月人を待たず」という言葉があります。「年月は人の都合に関わりなく過ぎ去り、一瞬もとどまらない」という意味のように、時間は私たちの意思に関わりなく、刻々と流れ去っていきます。それを仏教では「無常(むじょう)」と言います。
先月号では、この「無常」(諸行無常(しょぎょうむじょう))について、『涅槃経(ねはんぎょう)』というお経に見られる「諸行無常偈(げ)」(諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽)の四句が基になっていることや、雪山童子(せっせんどうじ)にちなんで「雪山偈(せっせんげ)」と呼ばれることなどを書きました。今月号では、さらに「諸行無常偈」(無常偈)の日本での展開を見てみたいと思います。
この「無常偈」については、これまでさまざまな解釈がなされてきましたが、その中でも、とりわけ画期的な発想をなされた方がいます。それは、平安時代末期に生きた真言宗中興の祖と崇められる覚鑁(かくばん)上人(興教大師(こうぎょうだいし)。1095~1143)です。皆様も毎日のお勤めの中で「南無興教大師(なむこうぎょうだいし)」とお唱えになっているのではないでしょうか。
覚鑁上人は、この無常偈の意味を意訳したものは「いろは歌」であると説きました(『密厳諸秘釈』)。いろは歌とは、ご存じのように全ての仮名が重ならないように作られた七五調の47文字です。
覚鑁上人は、「諸行無常」は「色は匂へど散りぬるを」(香りよく美しく咲き誇る花も、いつかは散ってしまう)、「是生滅法」は「我が世誰そ常ならむ」(この世に生きる私も、いつまでも生き続けることはできない)、「生滅滅已」は「有為の奥山今日越えて」(この無常の、悩みが絶えない迷いの奥山を今乗り越えて)、「寂滅為楽」は「浅き夢見じ酔ひもせず」(悟りに至れば、もう儚い夢を見ることもなく、この仮の世に酔いしれることもない。安らかな気持ちになる)という対応を示されました。
「いろは歌」が、今日まで広く知れ渡っているのは、こうした「無常の心」が日本人に受け入れられてきたからなのでしょうか。「有為(うい)」とは、絶えず変化する「無常」を意味します。覚鑁上人は、「夢」は「妄執邪見(もうじゅうじゃけん)」(迷いに執着する心)、「酔」は「無明痴闇(むみょうちあん)」(底知れぬ迷いの心)と説いています。
ここで思い出されるのは、覚鑁上人の次の和歌です。
夢の中は 夢もうつつも 夢なれば
覚めなば夢も うつつとをしれ
(『続後拾遺集』覚鑁)
(無常の世の中では、夢も現実も夢である。悟りを得て目覚めたならば、夢も真実であったと知りなさい)
何やら誦文のような歌ですが、ここでは「夢」と「現(うつつ)」が繰り返し詠み込まれています。少し難しくなりますが、この歌は、弘法大師空海(774~835)『十住心論』の「秘密荘厳心」に説かれるような「生死即涅槃(しょうじそくねはん)」(迷いがそのまま悟りであること)の境地を説いていると考えられます。即ち、上の句の「夢の中は夢もうつつも夢なれば」で「生死」の迷いを表し、下の句の「覚めなば夢もうつつとをしれ」で「涅槃(ねはん)」の悟りに達した境地を明かしていると思われるのです。「いろは歌」で歌われるような、無常の夢の世で自らの迷いを自覚し、それを乗り越えることによって、はじめて夢も悟りそのものであったと知ることができると歌っているのではないでしょうか。
仏法に入る方便(ほうべん)
多けれども、
無常を知る
肝要なり。
(無住『沙石集』)
(仏道に導いてくださる教えは多いけれど、「無常」を知ることが何よりも大切である)
この世は、儚いもので満ち溢れているのでしょう。晴れ渡る夜空を見上げていたら、無数に輝く星々の中に、さっと流れ星が消えていきました。
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最後までお読みくださりありがとうございました。