坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

「正精進」のお話①~怠け心を断ち切って、精一杯に生ききる~「法の水茎」61

雨雲が去って日差しが戻ってきました。

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参道のお地蔵様

「いまここにしかない わたしのいのち あなたのいのち」
お地蔵様の光背に刻まれています。


今回の文章は、八正道の「正精進(しょうしょうじん)」をテーマに、正しく励むことについて書いたものです。

    ※      ※

「法の水茎」61(2017年7月記)




  みそ萩や 水につければ 風の吹く
             (小林一茶)

 7月に入ると、田んぼの畦道や小川の岸辺などの湿った場所に「ミソハギ」の花が咲き始めます。「ミソハギ」の名は、秋の七草である「萩」に似ているから名付けられたとか。赤紫の花弁が風に揺れる姿を眺めていると、束の間の涼しさを感じます。スベスベした樹皮を持つ百日紅(さるすべり)も、同じミソハギ科の植物です。

 ミソハギは、漢字では「禊萩」と書きます。鎌倉時代の語源辞書に「かの草は悪鬼をさらしむる」(経尊『名語記』)と記していることからも、穢(けが)れを祓(はら)い、この身を洗い浄める草花として考えられていたのでしょう。

 ミソハギは「盆花」「精霊花(しょうりょうばな)」という別名を持っているように、毎年お盆(孟蘭盆会(うらぼんえ))の時期になると、お仏壇や、お墓などの仏前に供えられます。ご先祖様をお迎えする精霊棚(しょうりょうだな)(盆棚)には、茄子や南瓜、里芋などを賽の目に刻んだ「水の子」を飾り、その横にミソハギの束を置いた「閼伽水(あかみず)」(仏様に差し上げる水)を供えます。手を合わせる際には、閼伽水に浸したミソハギの束を「水の子」に注ぎますが、これは、水分と喉を潤す作用のあるミソハギを、ご先祖様に捧げる意味があるのです。

 冒頭の小林一茶(1763~1827)の句は、亡き妻の新盆(初盆)に詠まれたものです。一茶は、お盆に帰ってきてくれた愛妻の労を、久しぶりにねぎらったのでしょうか……それに答えるかのように「ありがとう」の風が一茶の頬を撫でました。それは、大切な人を思い返す度に込み上げてくる涙を、そっと拭ってくれた優しい風であったのかもしれません。

  亡き人の この世に帰る 面影の
   あはれ更け行く 秋の灯火
            (『隆祐集』)
(今は亡き愛しい人が、この世に帰って来てくれた。そのお姿が有り難くて、気付けば夜が深まっていく初秋の灯火よ)

 「秋の夜長」と言いますが、積もる話に、時の経つのも忘れてしまいそうになります。日常の悩み事を相談すれば、きっと灯火がゆらゆらと揺らめいてくれるでしょう。それは、これからの人生を良い方向に道案内してくれる、亡き人の「法(のり)の灯火(ともしび)」に違いありません。お盆の時期は、ご先祖様に感謝しつつ、いつにも増して身を浄め、心静かに過ごしたいものです。

 このように「心身を浄め、行動を慎むこと」を「精進(しょうじん)」と言います。仏教語では、「一途に仏道修行に励むこと」という意味ですが、日頃から悪いものを断ち、善い行いに精神を集中する必要があります。

 とは言うものの、『枕草子』に「たゆまるるもの。精進の日の行い」(自然と気が緩んでしまうもの。精進の日のお勤め(勤行(ごんぎょう)))と語られているように、お盆のような特別な日なのに、心の通い合ったご先祖様を前にすると、つい甘えてしまうこともあるでしょう。なかなか自分の心を律することができません。

 仏教では、精進に対する怠け心を「懈怠(けだい)」と言います。少し難しい言葉ですが、「懈」には「怠る」「緩む」という意味があります。まずはこうした「懈怠の心」を断ち切らなければなりません。ではどのようにすれば、正しい精進(正精進(しょうしょうじん))を身に付けることができるのでしょうか。

 兼好法師(1283頃~1352以後)の『徒然草』には、「懈怠」をめぐって次のような話があります。

 ある人が弓を射る技術を習うのに、2本の矢を手にして的に向かいました。すると、これを見ていた弓の師匠は言いました。「初心者は、2本の矢を持ってはならない。なぜなら後の矢を頼りにして、最初の矢を適当にする心が生まれるからである。一度は失敗しても良いと考えるのではなく、この一矢で決めようと思え」と。

 わずかに2本の矢であり、師匠の目の前で無駄にしようなどとは思わないでしょう。しかし、その弛んだ怠け心(懈怠の心)は、自分では気付かなくても、師匠には分かるのです。この戒めは弓に限らず、あらゆる物事に及びます。

 道を学ぶ者は、夕方には明日の朝があると思い、朝には夕方があると思って、その時になってからしっかりと修行しようとするものです。人はそれ程のものなのに、どうして一刹那(せつな)(僅かな瞬間)の中で、怠け心のあることを知ることができるでしょうか。ましてや今の一念(この瞬く間)に、すぐに実行に移すことは、なんと難しいのでしょう。
               (第92段)

 人間は、無意識に未来を思い描いてしまいます。しかし、本当に明日が来るのかは、だれにも保証できません。パチンと指をはじく弾指(だんし)の間に、65の刹那があると言います。毎日を徒(いたずら)に過ごすのではなく、本当の幸せに向かって、今この時を精一杯に生ききることが求められているのでしょう。

  人身は受け難く
  仏教には値(あ)ひ難し
  一心に精進して
  身命(しんみょう)を惜しまず
      (『今昔物語集』)
(人間には生まれがたく、仏教にはめぐりあいがたい。だからこそ心を一つに集めて精進し、あえて命を顧みないほどの覚悟が必要である)

 ミソハギの花言葉は「慈悲(じひ)」「愛の哀しみ」です。ミソハギの一滴を仏様に捧げるように、一生の一念の有り難さを、しっかりと自らの心に刻んでいきたいものです。

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最後までお読みくださりありがとうございました。