坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「道」のお話⑨~ 「盆道」の花に「中道」を観る、対立を離れ、極端な見方に偏らない教え ~ 「法の水茎」109


梅雨明けとともに猛暑がやって来ました。

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八重桔梗も夏の日差しを浴びています。

今月の『高尾山報』「法の水茎」も「道」がテーマです。お盆に向けての道を整える「盆路」や、無常の教えの先(あるいは中)にある「中道」について書いてみました。お読みいただけますと幸いです。

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「法の水茎」109(2021年7月号)



 

  夏草は茂りにけりなたまぼこの

   道行き人も結ぶばかりに

    (『新古今集』藤原元真)

(夏草が茂ってしまったな。道を行き交う人々が、草を結んで目印とするほどに)

 夏の盛りを前にして、名も知れぬ夏草が生い茂っています。恵みの雨を受けて、日に日に勢いよく生長する姿に、力強い生命の逞しさを感じます。

 この「夏草は」の歌では、道を行く人が伸びた草を結んでいます。それはどこかへと向かう旅人でしょうか。後からやって来る者への道しるべとして、草で結び目を作っていたのかもしれません。夏草に行き交う人を思う、古の風景です。

 ちなみに昔の子供たちの遊びの中には、あぜ道の草を結んで、誰かを引っかけてつまずかせるといういたずらもあったようです。今となっては懐かしい幼き日の思い出でしょう。

 夏草は、そのまま伸ばし放題にするわけにもいきません。一年の農作業を表すことわざに「春耕し、夏草切り、秋刈り、冬納む」(『譬喩尽』)という言葉があるように、生活を営むに当たっては草刈りも欠かせないものです。

 とりわけ夏のお盆が近づいてくると、お墓まわりを掃き清め、墓地に通じる道の草もきれいに刈り取られます。

  盆路のそれぞと見ゆる岨(そわ)の雲

         (水原秋桜子)

「盆路(ぼんみち)」(盆道)とは、お盆に帰ってくるご先祖様を思い、お墓から家までの草を刈って道を整えることです。精霊を迎えるために、旧暦七月一日(月遅れでは八月一日)に行われます。

 この「盆路の」の句では、深緑の嶮しい急斜面(岨)にかかる白雲を「盆路」に見立てています。日頃からご先祖様を敬う心が見せた一瞬の夏景色だったのでしょうか。

 盆路といえば、先日お檀家さんのご法事の際に、夏草が刈り取られた盆路を歩いていると、ところどころ小さな草花が咲いているのに気づきました。お話しを伺うと、可愛らしい花は、仏さまに捧げるために敢えて残しておいたとのこと。「一花一香の微妙の供養」(法住『秘密安心又略』)とも説かれるように、ほんのわずかな供養であっても大いなる功徳があるものです。このお檀家さんの心は、きっとご先祖様のもとに届いたでしょう。

 「一花一香」と似た言い回しに「一色一香無非中道」という仏教語があります。「どんな些細な存在にも中道の真理が備わっている」という意味で、主に天台宗で説かれる悟りの境地です。

 「中道」とは「極端な見方に偏らず、二つの対立から離れる」と説く仏教の基本となる教えです。お釈迦様は遙か昔、たいへんな苦行で衰弱した際に、スジャータという女性から乳がゆを与えられ食しました。心身ともに回復したお釈迦様は、その後「中道」を体得して悟りを開かれたと伝えられています。

 この中道をめぐっては、お釈迦様が悟りを開いた後(成道後)に、初めて仏教の教えを説いた時の話も残されています。

 今となっては昔の話。お釈迦様は、(菩提樹のもとで悟られた後に)波羅奈国(はらなこく)(現在のインドのヴァーラーナシーに都があった国)に赴き、憍陳如(きょうぢんにょ)など、五人の比丘(修行僧)が住むところに行きました。

 五人は遙かに如来(悟りを開いた人)がやってくるのを見て、互いに語り合って言いました。「沙門瞿曇(しゃもんぐどん)(お釈迦様)は、苦行(断食)を止めて飲食を受けるためにここに来られたのだろう」と。到着すると、五人は座から立ち上がり礼拝して迎えました。

 お釈迦様は語りました。「そなたたちは浅はかな智恵をもって、私の悟りを軽んじ疑ってはならない。苦行をやめたのは、心が掻き乱されるからだ。かといって快楽のみを求めれば、心は欲望に執着してしまう。だから私は苦・楽の二つの道を離れて中道を行ったのだ。そうすることで菩提(迷いを離れること)を成し遂げられたのだ」と。

 そしてお釈迦様は「苦・集・滅・道」(「四諦(したい)」)の教えを説き始めました。五人はこれを聞いて苦しみから解き放たれ、正しい眼を得られたのでした。

         (『今昔物語集』)

 お釈迦様は、肉体を痛めつけるだけの苦行でもなく、逆にどこまでも悦楽を追い求めるのでもない「苦楽中道(くらくちゅうどう)」の境地を示しました。それは両極端に偏る心を戒め、あらゆる対立から離れてゆく実践法でもあったのでしょう。

  世の中は鏡に映る影にあれや

   あるにもあらずなきにもあらず

   (源実朝『金槐和歌集』)

(この世は鏡に映し出された姿のようなものだろうか。有るかと思うと無く、無いかと思うとそうでもない)

 私たちは仏さまの世界に生かされています。盆路に咲く一輪の花も、やがて真夏の日差しを浴びて萎れるでしょう。少しずつ移ろいゆく季節の中には、良いも悪いも何もないのです。


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最後までお読みくださりありがとうございました。