坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

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「時間」のお話⑬ ~袖振り合うも多生の縁、この世に「無縁」なものは存在しない ~ 「法の水茎」97

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山寺に蝉の声が響いています。
あと1週間ほどで梅雨明けとなりますでしょうか。


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今日、7月15日は東京ではお盆ですね。
ご先祖様がお帰りになっていることでしょう。

 

今月の私の文章は、引き続き「時間」をテーマに、宿世(すくせ)、前世からの因縁について書いてみたものです。よろしければ、お読みいただけますと幸いです。

※ 6月中に書いたもののため、今月上旬からの大雨による被害について触れることができませんでした。この度の災害によって被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

     ※      ※

「法の水茎」97(2020年7月記)

 

 

 

  袖ひちて 我が手に結ぶ 水の面に

   天つ星合の 空を見るかな

         (『新古今集』藤原長能)

(袖を濡らして手にすくった水の表面に、天にある七夕の夜空が映っているよ)

 7月に入って、梅雨も後半となりました。7月7日の七夕の夜空(星合(ほしあ)いの空)には、織姫(織女星)と彦星(牽牛星)は、想い通りに巡り逢えたでしょうか。

 この「袖ひちて」の歌では、手のひらの中に澄み渡った天空の夜空が映り込んでいます。キラキラ輝く天の河には、二人の出逢いを叶えるための鵲(かささぎ)の橋(鵲という鳥が翼を並べて天の河に渡すという想像上の橋)も架けられたでしょうか。すくった水に映し出された一夜の逢瀬に、手をほどきたくない気持ちが湧き上がってきたかもしれません。

 7月も半ばになると、お盆の時期を迎えます。

  誰もただ 今日や折るらん 年ごとに

   水掛草の露のまにまに

             (『蔵玉集』)

(誰もただ今日は盆花を折るのだろう。毎年、精霊棚(しょうりょうだな)に手向ける水掛草(みずかけぐさ)の露とともに)

 「水掛草」は「ミソハギ」(禊萩(みそはぎ))の別名です。お盆にご先祖様をお迎えする棚(精霊棚)には、例えば山野から摘んできた萩や桔梗、菊や百合などの盆花とも呼ばれる花をお供えしますが、可憐な紅紫色の花をつけるミソハギもまた、お墓やお仏壇などに飾る花の一つです。精霊棚では水(閼伽水(あかみず))の側に置いて、喉の渇きを癒やしていただきます。

 お盆にお迎えするのは、ご先祖様とともに、亡くなられて初めてお盆にお帰りになる新仏(あらぼとけ)、さらには弔ってくれる縁者のいない無縁仏(むえんぼとけ)または餓鬼仏(がきぼとけ)も含まれます。餓鬼と呼ばれる亡者は、喉が針穴のように細くて飲食できないので、常に飢えと渇きに苦しんでいるといいます。そこで、喉の渇きを抑える作用のあるミソハギをお供えするのです。

 このことを少し疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。自分のご先祖様ならともかく、なぜ縁もゆかりもない無縁仏(餓鬼仏)にまでお供え物をするのか、と。

 ここで思い起こされるのは、日本に古くから伝わる「袖振り合うも多生(たしょう)の縁」ということわざです(「他生(たしょう)の縁」とも)。「多生の縁」とは、仏教語で「何度も生まれかわる間に結ばれた因縁」「前世からの因縁」という意味です。「道で見知らぬ人とすれ違う際に、お互いの袖が少し触れ合う程度のつながりも、前世からの因縁による」というのです。

 前世は「三世(さんぜ)」(過去世・現在世・未来世)の一つで、前世からの因縁は「宿世(すくせ)」「宿縁(しゅくえん)」などとも呼ばれます。「袖振り合うも多生の縁」と似た言葉に「ゆきずりの宿世」という言い回しもありますが、どんな些細なことでも前世からの因縁によるというのでしょう。現代は、前世との結びつきをあまり考えることのない時代かもしれませんが、あらゆるものが自分と関わっていると思うとき、この世に「無縁」なものは何も存在しないと言えます。

 ちなみに、七夕はお盆行事の一環でもあり、かつては旧暦7月に行われるものでした。現在の七夕は7月、お盆は8月のところが多いのですが、これは7月7日という日付にこだわった七夕と、季節感を重視したお盆との違いがあるのでしょう。

 前世との結びつきを語るものに、次のような話があります。

 今となっては昔のこと。筑前の国(今の福岡県の北西部)に、両目が見えなくなってしまった女性がいました。いつも涙を流して嘆き悲しんでいましたが、誠心(せいしん)を発して思うには、「私は、宿世(前世の報い)によって、目が見えなくなってしまった。この上は後世(来世)のために功徳を積んで、ひたすらに『法華経』を読誦しよう」と。こう誓うと、それから日夜お経を読み、いつしか4・5年の月日が経ちました。

 ある時、夢に一人の尊い僧侶が現れて、「そなたは前世の報いによって視力を失っているが、今、真心をもってお経を読んでいる故に、その両目はたちまち見えるようになるであろう」と告げると、手で両目を撫でられたところで夢から覚めました。

 するとその後、両目は開いて、以前のように物を見ることができるようになりました。女性は感涙(ありがた涙)を流して、『法華経』の霊験を知り、さらにつつしみ敬うようになりました。

           (『今昔物語集』)

 女性は我が身に前世からの因縁を感じていました。来世のために読誦した『法華経』の功徳によって、結局は現世(この世)で目が見えるようになりましたが、これは前世からの因縁(宿世)が決められた定めではなく、この世での行いによっては変えられるものであることを示していると言えるでしょう。女性の誠心(せいしん)(偽りのない心)が、未来の人生を切り開いたのです。

  我等が宿世の

  めでたさは、

  釈迦牟尼仏の正法に、

  この世に生まれて

  人となり、

  一乗妙法聞くぞかし。

        (『梁塵秘抄』)

(私たちの前世からの因縁の素晴らしさは、お釈迦様の正しい教えの時代にこの世に生まれて人間となり、尊い『法華経』を聞けることだ)

 夏の夜空の星々には、ご先祖様の光も瞬いているのでしょうか。七夕は年に一度の再会ですが、織姫と彦星の心はいつも互いにつながっているのでしょう。私たちもご先祖様を思って、お墓やお仏壇に手を合わせれば、いつでもお姿を現してくださいます。



     ※      ※

最後までお読みくださりありがとうございました。

 

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