坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「正命」のお話①~敬う気持ち、心を磨く~「法の水茎」60

強い雨が打ち付けています。

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お地蔵様と菖蒲

アヤメ(菖蒲)には雨が似合います。お地蔵様と居並んでいるようです。
お地蔵様の肩に降りかかる雨を、アヤメが受け止めているのでしょうか。


今回の文章は、八正道の「正命(しょうみょう)」をテーマに、正しい立ち居振る舞いを心がけることについて書いたものです。

    ※      ※

「法の水茎」60(2017年6月記)




 人の言葉を理解して、話を交わすことができる花があることをご存じでしょうか。それは、「解語(かいご)の花」と呼ばれています。もともと、中国の唐時代、玄宗皇帝(685~762)が池に咲く蓮を見ていたときに、寵愛する楊貴妃(719~756)に向かって、「池の見事な蓮の花も、この解語の花には及ばない」と語った故事に由来しています。以来、「解語の花」は、美しい女性の形容として用いられてきました。

 日本においても、

  立てば芍薬(しゃくやく)
  座れば牡丹(ぼたん)
  歩く姿は百合(ゆり)の花

という似た意味合いの言い回しがあります。反骨の奇人として知られる宮武外骨(みやたけがいこつ)(1867~1955)は、このように喩えられる女性は美しく、まるで「解語の花」のようだと語りました。

 「芍薬」も「牡丹」も「百合」の花も、この時節にピッタリの麗しい花々ですが、もちろん花の美しさのみを誉め称えたものではありません。ここには、「立つ」「座る」「歩く」という人の動作も織り込まれています。立ったり座ったりする日常的な「立ち」「居」を細やかに省みることが、やがて百合のような「振る舞い」の美しさへとつながっていくのでしょう。「芍薬」「牡丹」の基礎を身につけ、「百合」の夏へと季節が移れば、きっとこれまで以上の美しさを兼ね備えているはずです。

  夏の雨に 庭の小百合は 玉散りて
   涼しく晴るる 夕暮の空
          (慈円『拾玉集』)
(夏の雨が降り残した、庭の小百合の水滴もまろび散って、涼しく晴れ上がる夕暮れの空よ)

 「解語の花」とも称された山百合の花は、雨上がりの夕空のもとで、何を思って佇んでいるのでしょう。涙の玉を拭った後のように、茜色に染まった表情に心惹かれます。

 ところで、日常の立ち居振る舞いを「起居(ききょ)」とも言います。例えば僧侶は、毎日のお勤めの際に、御本尊様の御前で三度礼拝しますが、膝を少し屈める作法から「起居礼(ききょらい)」とも言われます。それは日頃から仏様を慎み敬う、祈りの美しさが表れた姿と言えるでしょう。清らかな装いは、男女を問わず奥ゆかしいものです。

 では、どのようにすれば「正しい振る舞い」が身に付くのでしょうか。美しい所作の基本は、どのようなものでしょう。

 鎌倉時代の説話集には、人の振る舞いをめぐって、次のような戒めが語られています。

 だいたい、人の振る舞いが乱れるのは、自分の心に、周りを見下す驕慢(きょうまん)(驕り高ぶり)があって、思いを廻らす心が足りないから起こるのです。これが原因で、ついには人生を無駄にして、後悔を深くすることもあります。

 たとえ自分自身が素晴らしいと思っていても、昔は良かったと懐かしく思い返しても、何かに興味を惹かれても、よくよく人目を気遣って、世の中を慎み深く受けとめるべきです。自身の思うままの心に従ってはいけません。

 ですから、あるお経には、

  心の師とはなるとも、
   心を師とせざれ

と書(か)かれているそうです。

 貧しい者には、自由気ままに振る舞う者が多く、豊かな者には、驕り高ぶっている者が多いものです。これは人間の常ですが、身分が高くなり徳が増すにつれても、よく心を静め、穏やかな心持ちでいることを、まず考えなければなりません。
            (『十訓抄』)

 この話の中では、「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」(心の師にはなっても良いが、心を師としてはいけない)という教えが引かれています(鴨長明『発心集』序にもあり)。正しい立ち居振る舞いを身に付けるためには、外見を真似るだけではなく、まず自らの心を磨く必要があるというのでしょう。

 自分の心は、自分でしか管理することができません。

  人間は実が入れば仰ぐ
  菩薩(ぼさつ)は実が入れば俯(うつむ)く
(人は、地位が上がり権力を手に入れると高慢(こうまん)になる。幸せを求める者(稲)は、実るほどに俯いて謙虚になる)

という言葉もあります。ついつい甘やかしがちになる心を律して、真の立ち居振る舞いを体得することができればと思います。

  雲雀(ひばり)立つ 荒野に生ふる 姫百合の
   何につくとも なき心かな
            (西行『山家集』)
(雲雀が飛び立つ荒野に生えている姫百合が揺れているように、何に頼ることもない、しなやかな生まれつきの心よ)

 「百合」には「揺り」が掛けられているように、姫百合は頑(かたく)なに他を拒むのではなく、まるで吹き抜ける風に身を委ねているようです。控えめに俯(うつむ)く百合の花を眺めていたら、「敬う気持ちは大切ですよ」と、そっと話しかけられました。

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最後までお読みくださりありがとうございました。