坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

「正念」のお話①~安らかな心で、雑念を払って~「法の水茎」62

バラも咲いてきました。

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バラ

これから日に日に咲き揃いそうです。
庭が明るくなりますね。



今回の文章は、八正道の「正念(しょうねん)」をテーマに、正しく真理を追い求めることについて書いたものです。

    ※      ※

「法の水茎」62(2017年8月記)




  荻の葉の そよぐ音こそ 秋風の
   人に知らるる 始なりけれ
         (『古今集』紀貫之)
(荻の葉の揺れ動く音こそ、秋風が人々に知られる始めなのだなぁ)

 まだまだ夏の陽気が続いていますが、二十四節気の立秋(8月7日)を過ぎれば、少しずつ秋の気配も感じ始めます。庭の草木も、初秋の風に揺らめくでしょう。耳を澄ませば、風と触れあう、かすかな音色が聞こえてくるかもしれません。

 冒頭の和歌に見える「荻(おぎ)」の葉擦れの音も、秋の訪れを感じさせるものでしょう。荻は、秋の七草の1つである「萩(はぎ)」と漢字が間違われやすいのですが、全くの別物で、ススキに似た姿をしています。昔の人々は、そよそよと音を立てる様子に、秋の到来を知ったのでした。

  秋風の 身にしむことを そよそよと
   うなづく荻ぞ 諸心なる
             (『頼政集』)
(秋風が身に染みて、つのる物寂しさを、「そうよ、そうよ」と頷いているように揺れている荻は、きっと私と心が通い合っているのでしょう)

 この歌に見られる「そよそよ」には、ふと何かを思い出したり、軽く相づちを打ったりするときに発する「其(そ)よ」(「そうそう」「それそれ」)が掛けられています。荻には「風聞草」という別名があるように、不意に出た溜息も、きっと間近に聞いているのでしょう。

 また「荻」の名は、古くは霊魂を招き寄せるという「ヲグ」(招)が由来とも言われます(折口信夫『花の話』)。とすれば、秋の愁いに耳を傾けてくださっているのは、神様・仏様なのでしょうか。あるいは、8月のお盆に帰ってこられたご先祖様が、優しく返事をしてくれているような気もします。日頃のさまざまな思いを離れて心を研ぎ澄ませれば、私達の身の回りには、多くの有り難い声が充ち満ちています。

 仏教では、「雑念を払い、安らかな心で、深く真理を追い求めること」を「正念(しょうねん)」と言います。ちなみに歌舞伎の「正念場(しょうねんば)」(一番大切な所)という用語も、この仏教語の「正念」が基になっています。ここぞという正念場を演じきるには、まずは「乱れのない確かな心」(正念)が肝要であるというのです。

 「正念」をめぐっては、次のようなお釈迦様の弟子の話)が伝わっています。

 仏の御弟子であった周利槃特(しゅりはんどく)は、あまりに物覚えが悪く、自分の名前さえも忘れるような状態でした。そこで仏法の例え話として、「正しく見ることは箒(ほうき)のようなものであり、心を集中させて雑念を払うことは塵取りのようなものだぞ」と教えましたが、箒の名前を復唱すると塵取りを忘れ、塵取りの名を復唱すると箒の名前を忘れてしまうほどでした。

 その姿を見て仏は哀れみました。そこで五百羅漢を師匠に任じて、一夏九旬の夏安居(げあんご)(旧暦4月16日から7月15までの夏の90日間)の間に、次のような1つの偈(仏の功徳を誉め称える詩)を教えることにしました。


  口を守り意を摂(おさ)め、
  身を犯すことなかれ。
  かくのごとく行ぜば、
  世を度することを得。
 このお経の意味は、「言葉を慎んで、心を集中し、身体で罪を犯してはならない。これを守って修行すれば、この世において迷いから抜け出すことができる」というものでした。

 周利槃特は、この言葉を信じて、来る日も来る日も掃除に励みました。そしてついに悟りの境地)を得ることができたのです。

 ですから、たとえ才能や知恵が多くなくても、信じて修行を行えば、極めて短い文によってでも、悟りを得ることができるのです。
             (『沙石集』)

 この話に見える短い教えは、『法句経(ほっくきょう)』という古いお経に説かれているものです。周利槃)特は、この教えを授けられ、信じ続ける日々を送ることによって、少しずつ雑念が取り除かれていきました。あれもこれもと散漫になっていた心を、掃除に集約し、身も心も磨き上げていったのです。安らかな心を得た周利槃特には、この世界が見違えるように光り輝いて映っていたことでしょう。

 この話の最後を、『沙石集』はこう締め括っています。

  正念(しょうねん)といふは
  則(すなわ)ち無念、
  真実の心なり。
(正念というのは、思いを離れた無心の境地であり、究極の心である)

 「秋の袂」と言われるように、季節の移ろいを感じ、物思いに耽ってしまう日もあるでしょう。そんな時、どんなことをすれば荻の葉は「そうよ、そうよ」と頷(うなず)いてくれるのでしょうか。

     ※      ※

最後までお読みくださりありがとうございました。